第四百三十五夜
草木も眠る丑三つ刻、書類仕事を一通り片付け、週刊誌を捲りながら鳴らない電話の番をしていた。
小規模のタクシィ会社の事務所で、客からの電話と運転手からの電話とを、深夜帯は一人で担当する。終電から暫くすると、客からの電話は殆ど無くなるからだ。勿論、様々な客が深夜のタクシィを利用する。が、一定の生活リズムでタクシィを利用せざるを得ない人は、携帯電話の普及もあって運転手に直接連絡を取ることが多くなった。
そういうわけで、深夜の電話番が暇なのは良いことなのだ。運転手からの緊急連絡が無いということなのだから。
すっかり冷めた珈琲を飲み干し、おかわりを取りに席を立つと、着信を知らせる電子音が鳴り、静まり返った事務所の壁に染み込む。
着信音からそれが運転手からのものだとわかり、時計の針を確認し、
――またか
と思いながら受話器を取る。
と、何度も私の名前を呼びながら、
「ねえ、どうしよう、俺首だよ、人を轢いちゃったよ、どうしよう、子供もまだ手が掛かるのにさぁ、どうしよう、救急車?うん、呼んだ、呼んだけど、上手く説明できたかなぁ、ぴくりとも動かないんだ、ねぇ、心臓マッサージとかしたほうがいいの?動かしちゃあ駄目だよね、ああ……」
と繰り返す。
私は溜息を吐きながら、彼の名前を呼び、
「落ち着いて、落ち着いて下さい」
と彼を宥める。
「落ち着いて下さい。奥さんも、お子さんも、元気に暮らしていらっしゃいます。社長が奥さんに仕事を斡旋しましてね、貴方の保険金もちゃんと奥さんに支払われて。だから、安心して成仏して下さい」。
そういう私の声はしかし彼に届かないのか、受話器からは慌てふためく今は亡き同僚の声が延々と流れ続けるので、私はいつものようにそっと受話器を下した。
そんな夢を見た。
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