第四百三十三夜

 

仕事で招かれた先であてがわれた宿は、海に切り立つ崖の上に建っていた。このご時世で客も従業員も少なく、宿の主人がしきりに碌な饗しが出来ないと頭を下げたがとんでもない、海の幸と甘い地酒が大いに気に入って、宵の口のうちにすっかり酔っ払ってしまっていた。

酔いに任せて一眠りしたいところだが、頭の隅に残っていた露天風呂の記憶が蘇る。人手がないから早い時間に締めてしまうと注意されていたのだ。一風呂楽しみながら酔いを醒まし、その後はまた酒を頼むなり、眠気の強いようならそのまま寝てしまうなり、後で考えよう。

そう思って部屋を出ると、ところどころの壁に見える案内板に従って恙なく脱衣場へ辿り着く。さっさと服を脱いで表へ出ると、洗い場の向こうに岩風呂の水面が煌めいている。その向こうには日本海が見下ろせるはずだが、生憎月の無い夜だから、ただ深い闇が広がっているばかりだ。それでも他に客はおらず、広々とした岩風呂が独り占めだと、酔った頭に幸せな満足感が満ちる。海はまた明日の朝風呂ででも眺めれば好かろう。

強い北風に身を震わせながら汗を流し、いよいよ湯船に身を浸す。湯の熱が肌から肉へ、肉から骨へと染み込むのを、目を閉じながら味わう。

と、崖の下から一際強い風が吹き、ぴーい甲高い鳥の声のようなものが聞こえる。この時間に鳥が鳴くものだろうかと思いながら辺りを見回すが、この暗さではたとえ本当に鳥がいてもその姿は見えなかろう。諦めたところで今度はひょう、ひょろろ、ぴい、ぴろろろと、篠笛や尺八の音が聞こえる。何かの曲を吹いているというのではないらしく、細い月のとうに沈んで僅かな照明以外に何の灯りもない崖下からそんな音が散発的に聞こえるだけだ。

不思議に思ううちに体もすっかり温まり、脱衣場へ戻って浴衣に袖を通していると、宿の従業員が入って来る。もう片付けの時間だろうか。
「崖から妙な音が聞こえたが、あれは何か」
と尋ねると、彼は嬉しそうに幾度か頷いて、
「お客さん、運が好うごいます。あれは岩笛とかなんとか言って、風の具合の良いときにしか聞こえないんですよ。貝がね、岩に穴を掘るんです。深かったり浅かったり。で、その岩場が地殻変動で隆起したのがこの崖で、その穴の空いたところへ上手く風が吹き込むと、色んな音色が聞こえるんだそうですわ」
と、自慢気に解説してくれた。

そんな夢を見た。

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