第四百二十一夜
隣に若い夫婦が越してきて一年が経った。
定年退職した上に外出自粛とあって、屋内でもできる趣味にと将棋を始めたのだが、昼食を終えて腹のこなれた頃合いに将棋盤を引っ張り出すと、平日はほとんど毎日その夫婦の家からピアノの音色が聞こえてくる。
初めのうちは辿々しかった音色は夏頃には淀まぬようになり、近頃ではもう素人には上手いとしか言えぬほどの腕前になって、将棋盤と解説書を見比べながらそれを聞くのが生活のリズムも一部になっている。
土曜の朝、毎週の買い出しに出掛けようと車に乗り込んで暖気運転をしていると、隣の家から件の夫婦が連れ立って出てきたので、一言礼をと思い車の窓を開けて挨拶をすると、夫婦も笑顔で挨拶を返してくる。
普段はそれで終わりのところ、今日は一言、
「それにしても、奥様ですかな?ピアノがすっかりお上手になられて」
と加えてみる。すると夫婦は途端に不思議そうな顔をして互いの顔を見合い、再びこちらに目を戻し、
「すみません、なんのことかちょっと……」
と言い淀む。
「昼過ぎにほら、平日は毎日弾いていらっしゃるでしょう?最近ではすっかり楽しみにしているくらいで」
と微笑むと、
「あの、うちにピアノがあるのはその通りですが、共働きの上にテレワークの利かない職業なので、昼の間ウチには誰も居ないはずなのですが……」
と、ご主人は俯き意味におずおずと言うのだった。
そんな夢を見た。
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