第三百九十夜

 

運動不足の解消にとジョギングを始めて早三ヶ月が経ち、そろそろ風景にも飽き、涼風も立ち始めたので、少しばかり距離を伸ばそうかと思い立った。

夕飯の片付けを終えて着替えると、スポーツ飲料を水筒に入れ、タオルを首にかけて日の暮れた住宅街へ出て十五分、これまでは折り返していた橋の下を潜ってそのまま上流へ進むことにする。

川沿いの土手の遊歩道から見下ろす風景は、工場や大きな商業施設の散らばる下流域から一転、一軒家と小さなアパートの並ぶ住宅地になり、街灯もまばらになってくる。

少々不安になって、頭の中で地図を思い浮かべる。川に沿って弧を描くように走ってきたはずで、土手から下りて垂直に走れば、ちょうどケーキかピザの一切れのように扇形を作って自宅のある辺りに着くはずだ。

暗い住宅街を抜けるか、折り返して灯りの多いところを走るか。

少々悩むが、少し走った先に土手を下りる階段を見つけ、それを下って住宅街を突っ切ることにする。引き返せば当然、ここまでの倍の時間を走ることになる。この階段を逃すとまた数分は下りられなくなる。遠出の初日で具合もわからぬのに張り切り過ぎるのは宜しくないとの判断だ。

寺の裏の墓場と幼稚園との隙間の細い道を抜け、小綺麗なアパートと砂利の駐車場との間を抜け、できるだけ真っ直ぐに自宅方面を目指し、ただしペースを上げぬように気を付けて脚を動かす。

と、道の突き当りに奇妙なものが見えた。木造三階建の、ちょっとお洒落な一軒家が、道路に面した半分だけ壊されている。周囲に防塵ネットでも張られていたり、重機の類が駐まっていれば解体中かと思うのだが、そうではない。剥き出しの木材にはびっしりと苔が生え、半ば取り壊された屋根の下、本来は家の床があるだろう辺りにさえ草が生えている。どれだけ放置されているのか、見当もつかない。

少々どころでなく気味が悪いのだが、丁字路に当たってしまっては仕方がない。大幅な遠回りを避けるために一度立ち止まり、スマート・フォンを取り出して付近の地図を確認していると、サウナ・スーツ姿で速歩きの年配の女性が歩いてきて、こんばんはと頭を挨拶をしてくれる。こちらも挨拶を返すと、彼女は膝を高く上げて足踏みしながら立ち止まり、余りここに長居するものではないと言う。どういうことかと尋ねると、
「ここらは元々、網元から成り上がった大きな商家の土地でね……」
ところが大正の頃に下流の埋め立てで海が遠くなり、おまけに橋まで出来て人の往来が変わって、色んな商売が上手く行かなくなった。それで土地を切り売りしたのだが、この家の区画だけは人が住めない。解体して更地にできれば駐車場なりに出来そうなものだが、よくある怪談話みたいに怪我人が出て、業者が気味悪がっている内に今の土地の持ち主が亡くなって、そのまま放置されている。
「何かの因縁のある土地なんですか?」
と尋ねると、
「ひいばあちゃんの若い頃には、お稲荷さんだったって話だけど、その始末が悪かったのかねぇ」
と神妙な顔をして兎に角気を付けなさいと忠告し直すと、彼女はまた速歩きで遠ざかって行った。

そんな夢を見た。