第三百八十七夜

 

通り雨が止んだのを見計らって、具合が悪いと寝込んだ妻のメモを頼りに買い物に出掛けた。

入念にメモを確認して買い忘れの無いことを確認して店を出ると、夕陽が雨を蒸発させて風が粘つく。先程まで生鮮食品売り場の強い冷気の中を歩いていたのだから尚更堪える。

手提げ袋の中の氷菓を心の支えに早足で帰宅し、熱の籠もったエレベータを避けて階段を上って玄関を開けると、一足の見慣れない靴が転がっていた。

黒地に桃色の模様が入ったビニル張りの小さなスニーカで、まだ湿った泥で酷く汚れている。せいぜい小学校の中学年くらいの女児が履くものと思われ、乱暴に脱いでそのまま上がったかのようにつま先を框に向け、片方は横になって底を見せているのもまた、いかにもそんな年頃らしく思われる。
「どなたかお客さんかい?」
と、靴を脱いで揃えながら居間へのつもりで声を掛ける。妻は昔取った杵柄で、自宅の一室を使って子供にピアノを教えているから、教え子の誰かが見舞いにでも来たのだろう。

が、以外にも手前の寝室から、そんなものは無いと妻の声が返ってくる。

ひとまず買ったものを台所に運び、包装を洗剤で洗い始めると妻が起きてきて、お客とは何のことかと尋ねる。これこれこういう靴がと伝えると彼女は青褪めた顔で眉を八の字にし、玄関を確認しようと私の袖を引っ張る。

彼女に覚えがないというのなら、あの靴は一体何なのか。手に付いた泡を流してタオルで拭く私の背を彼女が押す。

が、そこに先程の靴は無く、半ば湿った泥の足跡が幾つか残されているばかりだった。

私が台所に入ってから、誰か出て行ったのに気付いたかと背中を振り向いて訪ねるが彼女は首を横に振り、錠のツマミを指して、
「だってほら、鍵が掛かってるもの」
と震えた声を出す。
「ま、外へ出ていったなら気にしなくていいだろう」。
それよりせっかくの氷菓が溶けてしまうと台所へ向かう私を、妻は目を丸くして一秒、目に角を立てて一秒見た後、慌てて追って居間に戻った。

そんな夢を見た。