第三百六十九夜

 

「疫病騒ぎの中、こんな晩くまでお仕事で大変ですね」
と、車を出した運転手がルーム・ミラー越しにこちらを覗いて声を掛けて来た。
「いやあ、この時間でもタクシィを捕まえ易くなって、却って有り難いくらいです。運転手さんの方こそ大変でしょう」
と応じると、
「観光客の方がいらっしゃらないから、病気の方はそれほど心配はしていないんですよ。その分だけ売上には響いてますが」
と諦観の混ざった笑みを浮かべる。

静かな音楽を流すラジオ番組をリクエストして、湿った空気にぬめりと輝く街灯の流れて行くのを呆やりと眺める。

どれくらい走ったか、片側二車線の道路から、片側一車線の裏道へ折れる。幹線道路を繋ぐ裏道のようなものだろう。深夜だけあって元の道でもまるで混雑などしていなかったように思うが、職業柄の癖のようなものだろうか。

そんなことを考えている内に赤信号に引っかかり、ゆっくりと停車する。が、前方に交わる道は見えない。左右の信号機の足元を繋ぐように、一本の横断歩道があるだけだ。

ちょっと身を屈めてフロント・ウィンドウを覗き込むと、予想通り「押しボタン式」の標示板が下がっている。

半分寝呆けた頭で窓外のガード・レイルの足元から伸びる雑草を見ていると、
「お客さん」
と、運転手がおずおずと低い声を出す。運転手に視線を戻すと、こちらの返事も待たずに、
「この信号、無視してしまってもいいでしょうか?」
と、ミラー越しにこちらを見る。

どうかしたのかと尋ねると、もう二分も赤のままだし、信号待ちをしている人はおろか、左右の歩道を歩いている人影さえ見えない、押しボタン式の信号なのだから、赤になる数十秒前には誰かがボタンを押したはずなのに、これは可怪しいと、やや早口に言う。その十数秒の間も、信号機はずっと赤色を灯している。
「きっと、故障か何かでしょう」。
私がそう言う運転手はゆっくりと車を発進させ、横断歩道を徐行で跨ぐと、それから急に加速してその場を走り去った。

そんな夢を見た。