第三百六十六夜
営業再開から一月が経ち、この小さな温泉宿にもわずかながら客足が戻り、幸いにして予約に対して手が足りぬようになった。少なからず離れていった元従業員にも声を掛けたが、既に別口で働いている者も多く、まだまだ全員を呼び戻すほどの活気もない。それで、短期で構わない者と言う条件を付けて経験者の求人を出し、いかにも接客のベテランらしく人当たりのよい中年の女性を一人採用することが出来た。
一通り館内の設備を案内した後、休憩室でお茶を淹れていると、彼女は、
「歴史のあるお宿ですのに、本当に隅々まで清潔で、いいお宿ですね」
と、接客用とは思えぬ気の張らない笑顔でそう言った。
「真っ当な宿なら、どこも念入りに掃除はしているでしょう?」
とお茶を差し出すと、彼女は深々と頭を下げてからそれを受け取り、温度を確かめるように小さく一口それを飲み、
「いえね、掃除では取れない暗さといいますか、湿気といいますか、あるんですよ」
と顔の横で手を下向きに、ハエでも叩くように扇ぐ。
「もう幾つも宿を渡り歩いていますけれど、最近ではそう、二つ前に働いていた宿がそうでした」
と、休憩室の神棚を眺めながら話し始める。
その宿へは、そこで働いていた同業の知人からの依頼で入ることになった。この業界には彼女のように、旅行気分というのでもないけれど、土地の雰囲気を味わうためにそこで働き、ある程度の金が出来たら暫く旅暮らしをし、気に入った土地があればそこで仕事を探すというタイプの人間が少なくない。そんな同類の一人から、季節外れで人が集められないのだが急遽人手が欲しいから、手が空いているなら来て欲しいと、破格の待遇で招かれた。
行ってみれば新しく綺麗な宿なのだが、どうも全体に空気が重い。特に、ある客室は妙に湿った冷気を感じて、初日から嫌な予感があった。それからその部屋に客を入れる度、物音がする、人の気配がする、挙げ句には血塗れの女が出るとクレームが続き、彼女が来てから二週間もするとその客室は半分をリネン室、もう半分を物置兼従業員の休憩室へ改装してしまった。彼女を招いた友人に事情を聞けば、その部屋で無理心中があり、彼女が突然呼ばれたのも、それを発見した従業員が複数人体調を崩したり、やめてしまったからだったという。
「旅っていうのもね、みんながみんな、前向きなものではないものなのですね」
と溜息を一つ吐いて、彼女は少しぬるくなったお茶に口を付けた。
そんな夢を見た。
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