第三百二十八夜

 

行きつけの床屋で散髪をしていると、
「いや、参ったよ」
と店主が話し掛けてきた。住宅街にぽつんと店を構える古い床屋で、自分が学生として上京してきた頃からもう十年以上通っている。
「前に、アパートで小火が出たって話はしたっけか」
との確認に、二秒ほど間を置いて頷く。確か昨年の秋頃だったか、彼の所有する古いアパートで小火騒ぎがあったと愚痴を聞かされたのを思い出す。焼け方の都合で保険の額が小さくて修繕で脚が出そうだとか、煙に巻かれて住人が亡くなって請求も出来ないとか嘆いていたはずだ。
「また何かあったんですか?」
と水を向けると、彼は鋏と櫛とを止めることなく、流暢に語り始めた。

火事の後、インフラから内装まで、できるだけ急がせて年を越す前に復旧に漕ぎ着けた。管理を任せている不動産屋も直ぐに入居者の募集を始め、一月の下旬からちらほらと内部の見学者が現れると、不動産屋で妙な噂が流れ始めた。
「火事で死んだ男の呻き声が聞こえるとか?」
と半ば冗談で尋ねると、
「幽霊話には違いねぇんだけどもな」
と眉を顰めた店主が、
「客を案内する度にさ、秋刀魚の焼ける美味そうな匂いがするってんだ。火事の原因は煙草がカーテンに燃え移っただけだっての」
と憤る。
「晩のおかずに食ってもらえなかった秋刀魚の恨みでも、残ってるんですかね」
と笑うと、
「食い物の恨みは怖ろしいってな」
と店主も手を休めて白い歯を見せた。

そんな夢を見た。

No responses yet

コメントを残す

メールアドレスが公開されることはありません。 が付いている欄は必須項目です

最近の投稿
アーカイブ