第二百八十四夜
やや肌寒く湿った空気は木々と土の香りがして心地よい。時折輝く灯り以外は本当に真っ暗闇の中、太腿を軋ませながらペダルを漕ぐ。
自転車が先かカメラが先か、趣味が昂じて連休には夜通し走って海や山を撮るようになり、特に朝陽が気に入って、今日も夜明けまでに雲海を見下ろせるという山を目指している。
すれ違う車も、十五夜に近いはずの月も無い中、不意に道が膨らんで、ちいさな展望台になっているのが見えてくる。藪の脇を抜けると、自動販売機と公衆便所の灯りが煌々と輝いている。一息吐こうかと身体を倒し、崖沿いの柵に自転車を立て掛ける。
眼下に頼りなく疎らに広がる盆地の町の灯を眺めながら、鞄から取り出した煙草に火を点ける。
空気の綺麗なところで吸う煙草は格別だ。美味い水で仕込み、美味い水で割った酒が美味いのと同じ理屈なのだろうと、勝手に思っている。
便所の方からホウホウと、フクロウか何かの鳴く声がしてそちらに目をやると、その横に並んだ紙コップの自販機が目に入る。冷えた身体に温かいココアでもと思い立ち、鞄から小銭入れを出して自販機へ向かい、羽虫を追い払いながらホット・ココアの下のボタンを押す。
カタンとやや湿った音がして紙コップが落ち、機械が唸る。ココアの入るのを待っていると、不意にフクロウの声が止む。何とは無しにそちらへ目を遣ると、目の前に灰色の作業着の男がタバコを咥え、皺の多い顔に満面の笑みを浮かべて立っていた。何の気配も無しにいつの間にと驚いていると、彼は笑顔のまま、
「火、貸してくれませんかね」
と、煙草の前で親指を動かしてみせる。
胸ポケットから取り出したジッポで火を点けてやると、幾度か満足気に頷いてから煙を吐き、また皺だらけの顔で礼を言って、便所の方へ歩いて行く。
呆やりとその後姿を見送っていると、ピーとココアの完成を告げる電子音が鳴って我に返り、紙コップに息を吹いて冷ましながら自転車へ戻る。
ココアの冷めるのを待ちながら、閑散とした駐車場を振り返る。夜露に濡れた瀝青が、LEDの灯りをぬめりと照り返している。
ココアを口に含むと鼻と舌とに甘い香りが広がり、飲み込むとその熱が食道を伝って胃へ降りる。身体の冷え切る前に自転車を出さなければと荷物を纏めながら気が付いた。
駐車場には車も二輪も、自分のもの以外には一台も駐められていなかった。
そんな夢を見た。
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