第二百八十二夜

 

夜勤明けの怠い身体をがら空きの下り電車に揺られてつい舟を漕いでいると、いつの間にか最寄り駅で車両の扉が開いていた。

閉じる扉に半ば挟まれながら慌ててホームへ出ると湿った熱気が全身を覆い、直ぐに汗が滲み出るのが分かる。

階段を下って改札を出、寝る前に食べる昼食の献立を考えながら駅前の商店街へ向かってロータリィの脇を歩いていると、
「すいません」
と、陽気な中年女性の声が聞こえて振り向く。茶色いパーマのおばちゃんが、にこにことこちらを見上げている。
「何でしょう」
と返しながら、その笑顔の下の長袖シャツに描かれたヒョウと目が合う。胸と腹の膨らみが絶妙で、実に猫科らしい凹凸のある生き生きとした顔立ちをしている。
「金星って、どっちか分かる?」
という。喫茶店か何かかと問い返すと、
「違う違う、太陽系の第二惑星の金星よ」
と大口を開けて笑い声を上げる。

何故そんなことを知りたいのかと疑問に思いながらスマート・フォンを取り出す。確か天体の位置をリアル・タイムで表示するウェブ・サービスがあったはずだ。高校の修学旅行で沖縄に行った際、明るい惑星や南十字星の観察レポートが課題だったことを思い出しながらそれを探す。
「ああ、こっちみたいですね。昼だから見えませんけど……」
と画面を見せながら指で方向を示すと、
「へぇ、便利なものねぇ」
と嘆息し、
「いやぁありがとう、ありがとう」
と、おばちゃんは何度も私の方をバシバシと叩く。
「ありがとうね、これ、お礼ね」
と、鞄からドーナツ型の黄色い飴を取り出して私に握らせる。

礼を言ってスマート・フォンと飴とを鞄へ仕舞いながら、
「どうして金星なんて?」
と尋ねると、
「いや、おばちゃん宇宙人なんだけどね、方向音痴で迷子になっちゃって、宇宙船に戻れなくて困ってたの。ほんと、助かったわぁ」
という。こういう冗談が日常的に口をついて出る人なのだろう。鞄を閉じて、
「じゃあ、これで」
と挨拶をしながら振り返ると、そこにおばちゃんの姿はない。おばちゃんの返事が終わって、三秒も経っていないはずだ。

もうどこかへ歩き始めたのかと辺りを見回しても、あれだけ目立つヒョウ柄シャツの姿は、もうどこにも見えなかった。

そんな夢を見た。