第二十八夜

職場の入ったビル一階のエレベータ・ホール。上層階直通のこのエレベータを利用する者は他にいないらしく、私だけが扉の前、正面から身体半分左へずれた位置に立ち、到着を待っている。

ポンと音が鳴ってエレベータの扉が開くや否や、中から転がるように駆け出てきた何者かが、私の右肩にぶつかって互いによろめく。

どうにか踏みとどまった女性は酷く青ざめた顔に汗で髪を張り付かせてこちらを振り返り、早口に詫びを述べると、五センチほどのヒールとスーツのタイトスカートという服装に不似合いな速度で駆けて行く。その後ろ姿をホールの皆が目で追う。

腹でも下してよほど切迫した事態だったのだろうか、彼女の身の心配と少々の好奇心がくすぐられた程度で、謝罪もあったので腹は立たない。

振り返るとエレベータの扉は丁度閉まり始めたところで、どうにかボタンを押さずに乗り込む。

左回りに振り返りながら、扉の右の操作パネル、階の指定をするボタンへ右手を伸ばす。が、そこには銀色に輝く金属の板がのっぺりとした平面を見せていた。つまり、パネルが無いのである。週に五日、日に二、三度利用するエレベータである。常に自分でパネルを操作するわけではないけれど、それでもボタンの位置は既に身体に染み付いている。このエレベータの操作パネルは、扉に向かって右側に有ったはずだ。

掌や腋の下に嫌な汗が滲み出るのを感じながら、恐る恐る扉の左側を見てみる。
――ほら見ろ。

当然、そこにパネルは無い。そのまま左回りにぐるりと回って、壁を確かめる。扉のある面以外の三面はどの壁もいつも通り、扉の正面は鏡張り、残りの二面は木目調の樹脂シート張りで、そのどこにもパネルは無い。

掌、腋の下、足の裏から、嫌な汗が出る。

天井を見上げるが、そこにもパネルは無い。いや、端からそこにあろうとは期待していなかった。念のため、足元のマットをめくって床面を調べる。が、当然パネルは無い。

一・二メートル四方の箱に閉じ込められたのだ。

もう一度天井を見上げると、中央に正方形の溝が見える。その部分が開き箱の上へと脱出するシーンを何かの映画で見た覚えがある。軽く跳ね、手でそこを押し上げてみる。が、びくともしない。もう一度、腕を振って勢いを付け、思い切り跳ねて天井の正方形を掌で思い切り叩く。やはり、びくともしない。

天井は潔く諦めよう。ここは正攻法、正面の扉を何とかするしかあるまい。

扉の境へ指を這わせながら、目を凝らす。扉はぴったりと閉じ合わさり、わずかに角が丸くなってはいるものの、指をかける余地は無い。それどころか、十円玉を挟む隙間さえも無い。結局、両掌を扉の面にぴったりと合わせ、押し広げるしか手はないか。

観念して左右の扉に掌を押し付け、腕と肩と胸の筋肉を使って押し広げる。が、扉は僅かに奥へずれるだけで、開閉方向へはびくともしない。筋肉に更に力を込めても汗で掌が滑り、ぎゅっと虚しい音が鳴るばかり。それでも上着を脱ぎ、ワイシャツの袖を肘まで捲り、汗をハンカチで拭って、再度扉に掌を押し付ける。やはり、扉はびくともしない。

手を付く高さや両手の幅を変えるなど、幾度か試行錯誤を繰り返うち、あちこちの筋肉が攣りそうになったので、一度休憩をすることにする。

床に放っていた上着を拾い上げて埃を払い、鏡面の壁に寄り掛かると、汗で濡れたシャツがヒヤリと冷たい。
――どうしたものか。

周囲を見回してみるが、やはり操作パネルは無い。パネルが無い以上、開閉ボタンも緊急連絡用のボタンも無い。いやいや、そういう常識的な対処ができるような事態で無いことは、とっくに解っているではないか。鏡に写った私は、酷く汗を掻きながら、酷く青ざめている。
――全く、なんてエレベータだ……。

そう思ってハッとした。そう、これはエレベータである。扉が閉まって以降、うんともすんとも言わないが、
――誰かが外部から動かしてくれさえすれば……。

一休み、と自分に言い聞かせはしたものの、あの扉は自分の腕力でどうこうできるものでないことは明らかだった。だから、そんな可能性を期待するより他にない。鏡を背にして座り込み、ただただ時を待つことにする。

無音。

本当に、このエレベータが再び動くことはあるのだろうか。

動くとして、それは一体いつだろうか。

それまでに、尿意や便意が来ないと助かる。

それまで、この部屋の酸素は持つのだろうか。
――……。

どれほど時が経ったものか、不意に低い振動音がして、胃の浮くようなエレベータの加加速度を感じ、慌てて上着を手に立ち上がる。

間もなくポンと音が鳴り、扉が左右に移動を始めるその隙間へ身体を捩じ込むように、私はエレベータを飛び出す。目の前に立っていた紺色のスーツにぶつかる。振り返って頭を下げながら短く詫びを言う。ここは一階のエレベータ・ホールだ。とにかく一度建物を出たい。新鮮な空気を吸いたい。周囲の壁に囲まれていない、青い空の下へ行きたい。

私は座り放しで痺れた脚をもつれさせ、背後から好奇の視線を送られているのを感じながら、一目散に外へ駆ける。

そんな夢を見た。