第二百四十八夜

 

窓外で手を振る二人が見えなくなると、鞄から英単語帳を取り出す。自宅の最寄りまではあと二駅しか無いが、山奥へ向かうに連れて駅の間は広くなる。一駅十分、二十分ほどは明日の小テスト対策が出来る。物覚えの悪い私には、同方向の部活の仲間と別れて人の少ない車中で過ごすそんな時間も、貴重な悪足掻きタイムだ。

単語を目で追い、人差し指で綴りを膝になぞり、走行音にかき消されるのに期待して小声で発音を繰り返す。

そうこうするうち、左手から単語帳を取り落としそうになってはっと気付くと、電車が駅に停まっている。身を屈めて駅名の看板を探すと最寄駅のひとつ先で、慌てて電車を降りる。
うっかり寝過ごしていたらしい。部活で疲れて帰っても、この春に入学して以来ずっと寝過ごしたことはなかったので、初めての失敗に我ながら情けなくなる。

LEDの灯で日の暮れた山中から綺麗に縁取られた駅舎内には、自分の他には誰も居ない。山奥の終点手前だから仕方がないが、オケラの鳴くジジジと言う振動音だけの響く無人の駅は少々心細い。
辺りを見回して時刻表を探す。次の列車は十分ほど来ないようだ。ここまで乗り過ごした十分、それを往復で二十分、待ち時間が十分で、合計三十分。過保護な祖父が心配しないよう家へ電話を掛けると、車で迎えに行くという。線路沿いに電車が走って十分掛かる距離だから、当然十分では来られない。
「おとなしく電車を待っていたほうが早いから」
と断る。

段差の大きな階段を下り、線路を渡って、上り側のホームへまた急な階段を上る。ベンチに荷物を置いて単語帳を開く。また寝過ごしてしまっては大事だから、その要心である。流石に立ったまま寝られるほど器用ではないと願いたい。

暫くまた単語を目で追い、人差し指で綴りを膝になぞり、どうせ聞く人もいないのだけれど何か憚られて小声で発音を繰り返す。

そのうちに電車の入ってくる音がし、風がページを捲りあげる。もう十分も経ったのかと思いつつ最後の一単語を口ずさむ。風が止んでドアの開く音がし、ベンチの荷物を手に取って顔を上げると電車は無い。上り側どころか、下り側もだ。

左手首の時計を見ると、まだ五分ほどしか経っていない。きっと強い風が吹いたのだろう。列車の減速する大きな音を聞いた気がしたが、気のせいだろう。そう思うことにして、また単語帳に目を下ろした。

そんな夢を見た。

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