第二十三夜

引っ越しの初日、粗方の荷解きを終えて風呂に入った。目を閉じて洗髪をしていると、不意に瞼の向こうが暗くなった。風呂に入る前に特に電気を喰う機械を動かしっ放しにした覚えも無く、一人暮らしの身で友人を招いているわけでもないので、誰かが何かのスイッチを入れてブレーカが落ちたわけでもなかろう。とすれば
――停電か?
と頭を巡らせていると、右手の浴槽でちゃぷりと音がして、何かが動く気配がある。肩が濡れているので、その何かが動いて生じた風が水を気化させて肌寒い。
「ううううう……」
と女の呻くような音がする。

ブレーカを確かめようにも、頭の泡を流して身体の水分を拭かねば後の始末が大変だ。平素から目を閉じたまま髪を洗う癖があるから、新居で多少勝手は違うといえども、蛇口やシャワ・ヘッドの位置は分かる。右手でシャワ・ヘッドを掴んで頭の上に構え、左手をコックに掛ける。と、なにやら冷たいゴムのような物があるので、それを払い除けてコックを湯の出る方へひねる。

冷たい。

幾度かコックを捻り直し、シャワを足に当てながら湯の出るのを待つが、一向に湯沸かし器の動く音がしない。諦めて冷たい水で頭髪の泡を手短に洗い流して目を開けると、浴槽から上半身を乗り出した女が、青白い顔に虚ろな表情を浮かべ、手首から血を滴らせながらカミソリをこちらに突きつけている。窓の無い浴室は電灯無しでは真っ暗なはずなのだが、彼女の青白さと血の赤さだけは何故か判然と識別できる。
「なんだ、君は」
と問うと、たどたどしくも恨めしげな調子で、この浴槽で睡眠薬を飲んで手首を切り、浴槽に張った湯に傷口を浸して自殺をした女の霊だという。

水で頭を流したために極めて寒いのでひとまず服を着たい。浴室の扉を開けて外に用意しておいたタオルで頭と身体を拭き、着替えを一通り身に纏う。案の定、居間の電灯も消えていて真っ暗である。手探りで服を着る間に女が訴えることには、ここは女の縄張りのようなものである、私が住んで生活をしていると落ち着いて自殺が出来ないので、出ていって欲しいのだそうだ。

着替え終わって壁伝いに手探りでブレーカを確かめると、残念なことにブレーカは落ちていない。電灯が点かないのは君の仕業かと問うと、肯定する。シャワの湯に付いても同様の質問に同様の返答。どうやら無視をして日常通りの生活を送ることは出来ぬらしいので、諦めて話をしてやることにする。

家賃を払ってここに住んでいるのは私である。正当な対価を払っているのに対価を払わぬ者に追い出される謂われはない。出ていくべきなのは君であって、ここに居たいのなら私に利益をもたらすべきでこそあれ、このように不利益をもたらすようでは道理に合わぬ。

これで納得して出て行けばそれでよし、道理を弁えぬ女で出て行かぬならば塩でも撒いてやるかと思っていると、女は自分の手首をカミソリでなぞりながら反論する。

道理に合わぬのは貴方の方だ。この部屋の家賃は隣や向かいの部屋の半額である。確かに北向きの部屋で多少値引かれるにしても角部屋ということで、普通なら隣と変わらぬ値段のはず。これが半額なのはこの部屋が私の死んだ事故物件であり、私が化けて出てこの部屋の住民を次々に追い出すからこそなのである。あなたがここを出て行かずに住み続けるというなら、私は貴方と家賃を折半しているのと同じことだ。

なるほど、言われてみればその通り。言い負かされた私は結局、彼女がそこで自殺をした時間帯の風呂の使用を控える代わり、それ以外に私の生活に害を与えぬことを約束させる次第となった。

そんな夢を見た。