第二百二十八夜

 

大きな一枚板の食卓のある部屋で座布団を勧められた。少しふっくらとした体型の女性が、
「こんな田舎まで来て一日船の上でお疲れでしょうに、特別なおもてなしも出来なくて」
と申し訳無さそうに茶を差し出す。

私の釣り好きを知った上司の実家が漁師で、その弟夫婦が釣り船を出したりもしているからと釣りに誘ってくれた。その釣果を上司が手づから捌いてもてなしてくれるといって台所へ向かのに、何か手伝うべく付いていこうとすると、
「お前は客だから」
と叱られてこの部屋へ通された。
「義兄さんの好きでやってることだから」
気にしなくてよいと、上司の弟の奥様は笑うが、やはり尻が落ち着かない。

頭を掻いているところへ弟さんがやってきて、
「俺まで追い出されっちまった」
と、私の斜向かいに腰を下ろし、代わりに奥様が湯呑を取りに行ってくると席を立つ。
「全く兄貴は昔からああで、自分の好きなことを好き放題しやあがる。釣りが好きだから仕事にゃしたくねえと言って街へ出るのもそう。未だに結婚してないのも同じこと。未だに兄貴にゃ尻拭いばかりさせられる」
口に手を立てて茶目っ気たっぷりにそう言う彼の日に焼けた顔には、しかし笑顔が浮かんでいる。

その顔を見て、漁師の仕事について訪ねてみる。燃料がどうの、網がどうのと話すうち、陽の昇る前から漁に出るとの話になった。

夜の海といえば波止場の夜釣りくらいしか知らないが、不意に何かずずっと奥の方へ引き込まれるような、或いは真っ黒な水のうちからずずっと何かが現れるような、そんな妙な怖さがあって、どうも苦手だ。
「そんな海の真っ只中、陸も見えない沖へ船で出るのに怖くはありませんか?」
と尋ねると、
「昔から、板一枚下は地獄だあの世だ言うけどね」
と前置きし、幾ら怖がったところで自然には敵わない、自然を舐めてならないのは当然だが、無闇矢鱈と怖がったてしょうがないんで、
「できる限りの準備と覚悟は万端で望んでるつもりではある、かなぁ」
と言ってから、格好を付けすぎたと照れ隠しに笑う。いつの間にか戻ってきていた奥様が湯呑のお茶を差し出すと、
「おおそうだ、板の上で仕事をしてる俺よりも、板の下の地獄で仕事をしてたお方のほうが、よっぽど怖さを知ってるんじゃないか」
と話を振る。奥様は、
「そうねぇ……」
と暫し丸い目で天井のすみを眺めてから、
「『ともかづき』ってご存知?」
と首を傾げる。私が首を振ると、
「『共に潜る』で『ともかづぎ』っていうそうなんだけれど、海女が見るドッペル・ゲンガーみたいなものでね、海の中で自分そっくりの海女を見ることがあるんですって」
と、低い声色を作って話し始める。

それに出会うと岩陰の狭いところに連れ込まれて出てこられなくなるとか、病気になるとか言われて、どうなるのか定かではないが、兎に角、縁起の好いものではないらしい。『ともかづき』が出たという話になると、二、三日は地域の海女がみんな海に入らないなんて風習もあるそうだ。

ドッペル・ゲンガーというのは分身みたいなもので、本人が出会うこともあれば、本人が居なかったはずの場所で知人が目撃することもある。そして、自分で目撃してしまうと、近いうちに死ぬというものだ。
「ドッペル・ゲンガーは他人が見ることもありますけど、『ともかづき』は本人しか見ないんですか」
と尋ねると、彼女は満足気に頷いて話を続ける。
「それがこの話のミソでね。雪山や海の事故でよく話題になる低体温症って、幻覚を伴うことがあって、『ともかづき』もそれが原因なんじゃないかとは言われているのだけれど……」
彼女は一呼吸間を置いて、
「『ともかづき』は、独りで潜っている海女だけが出会う、と言われているの」
といって、ニンマリと笑う。

海女のような危険と隣合わせの仕事で、独りで潜ることなどあるのだろうか。疑問に思って尋ねると、上司の弟さんが横から、
「それでも独りで潜るってことは、な?わかるだろう。決まりごとを破ってまで、独りで美味しい思いをしようとしちゃいけねぇってこった」
と、大袈裟に肩を窄めて怖がってみせる。

背筋に走った寒気に湯呑を口に当てると、茶はすっかり冷めてしまっていた。

そんな夢を見た。

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