第百三十一夜

 

たまの休日に散歩へ出て、洒落た喫茶店を見付けた。北欧風の無機質な店内へ入ると、ワイシャツにスラックス姿の女性が接客に現れる。一言二言のやり取りの後、窓際の席に着いて荷物を下ろし、ミルフィーユと珈琲を注文すると、彼女は丁寧にお辞儀して下がっていく。珈琲の出て来るまでの暇つぶしに、鞄から出したタブレット端末でニュースを眺める。

と、アメリカで珈琲に発癌性の表示が義務付けられそうだという記事が目に入る。アクリルアミドとやらいう物質が発癌性を疑われているらしい。これから楽しもうというときに、何とも間の悪いことだ。

記事に詳しく目を通す前に便所を借りようと顔を上げると、目の前に赤銅色の肌をした、筋骨隆々たる青年が二人、黒いブーメラン・パンツを穿いただけの姿で、筋肉を誇示するようなポーズを取り、底抜けに明るい笑みで白い歯を剥き出しながら立っている。一人は黒い直毛、もうひとりは金の縮れ毛を、揃ってポマードで固めオールバックにしている。
――そういえば、こいつらは自分以外にも見えるのだろうか。

疲れた私の見る幻覚であれば、他の人間には見えないはずだ。
「いえいえご主人、我らは決して幻覚などではありませぬ。我らはご主人が朝昼晩と欠かさずに召し上がる、珈琲の精でございます。日頃のご愛飲に報いようと、お困りのご主人の元へ化けて出たのでございます」
と、舞台役者のように腹の底から出るよく張った大きな声で黒髪が言い、金髪がニコニコしながら幾度も頷く。

徒然草に、大根にご利益があると信じて朝晩食する者が空き巣に遭った際、留守の家を大根の精が化けて出て守ったという話があった。それが頭の片隅に有って、こんな幻覚を見ているのに違いない。そんなことを思っていると、店内に立っていた先程の女性給仕に向かって金髪が「ハーイ」と腕を振り、彼女も胸の前で小さく手を振り返す。他の客はともかく、少なくとも彼女には彼らが見えているらしい。
 さて、いつものように黒髪がこちらにグイと笑顔を寄せ、
「いえいえご主人様、我らは本当に珈琲の精でございます。お困りのことがあれば何でもお申し付け下され」
と言う。

そこでタブレットを指し、
「この発癌性って、本当?」
と問うと、急に真剣な目付きになって饒舌に語り出した。
 アクリルアミドについては、マウスやラットの実験によって、神経毒性と遺伝毒性は確かに認められている。が、ヒトにおいての発癌性はまだ「疑われる」という段階にすぎない。

そもそもアクリルアミドとはアルギニン酸とスクロースやフルクトースが加熱されたときに生じるらしく、じゃがいもなど、珈琲に限らずデンプンとタンパク質の含まれる食品を揚げたり焼いたりすれば、程度の差はあれ生じるものだ。野菜炒めにも多く含まれることがあるくらいで、珈琲だけを槍玉に挙げるのは理不尽だ。
「食の発癌性だけをいうならば、火傷するほど熱い食品を口に含んだり、無理に飲み下したりしないことのほうが大事です。極端にアクリルアミドを避けようとすれば、加熱調理を避けて食中毒のリスクを高めたり、栄養バランスの偏った食事で健康を損なう可能性もあります」。

そこまで語ると黒髪は柔和な笑みに戻り、
「何事も節度とバランスが大事ということでございます。これからもどうか珈琲をご贔屓に……」
と言いながら、霧の晴れるようにすぅっとその暑苦しい巨体が消え、そこへミルフィーユと熱い珈琲を持った給仕がやってきて、ポニーテイルを揺らしながら会釈した。

そんな夢を見た。