第百七夜

 

「どうする?」
という友人の声が冴えた堂に響き、破れた戸から冬山の闇の雨音の中へ吸い込まれてゆく。
「どうすると言っても……」
灯は堂を朧げに照らすこのガス・ランタンに、LEDの小さな懐中電灯しか無い。そもそもが夜に歩き回るつもりではなかったのだから、
「夜の山を、それも雨の降る中を歩き回れるような装備は無いだろう」。

そう言うと、友人も曖昧に頷いたきり、ランタンの橙色の輝きを俯き加減で見つめたまま動かなくなった。

ここは鈴鹿の山中にある廃寺である。鬼が棲みついて人を喰うとか、いやムジナが化けているだけだとか、そもそも同じ道を行っても辿り着けないことがあるとか、そういった噂が大学で冗談交じりに流れていたそうだ。そんな噂を聞きつけたある友人が、私と、私の正面に膝を抱えて坐る友人とを誘い、三人でその廃寺で一夜を明かそうと肝試しを持ちかけてきたのだった。

男三人色気がないと、気乗りしない二人だったが、彼はキャンプなどが好きだから、独りで寝袋など最低限の防寒具と食料、湯を沸かすための五徳とガスの用意と灯とを整える、二人は温かく歩きやすい格好で来るだけでいいと約束した。

結局男三人、バスを乗り継ぎ山へ入ることにした。友人が人に聞いたという道順に従って歩くと日暮れ間近に苔生した廃寺に着き、湯を沸かして即席麺と栄養ブロックで腹を満たしたところまでは良かった。

今この堂に、その彼は居ない。もう三十分も経っただろうか、すっかり暗くなった山に、音を立てて雨が降り出した。それが合図だったかのように彼は用を足すと言って小さな懐中電灯を手に堂を出て行ったきり、戻ってこないのである。

アウト・ドアが趣味の彼はそれなりの防寒具を着ていたようだが、こんな山奥を雨に打たれながら小さな灯だけで歩くのが容易でないことは、山に詳しくない私や友人にもわかる。五分戻らぬ頃には大きい方かと笑っていたが、十分経つと流石に可怪しい。二人で寺の回りを一周、雨に濡れぬよう所々朽ちた廂の下を、声を上げながら回ってみた。が、彼の姿は何処にもなかった。

だからといって、彼を探しに行くことが賢明でないのは明白だ。二人とも山は素人で、廃墟とは言え屋根のあるところに寝袋で寝るだけといって誘われたものだから、装備と呼べるほどの恰好さえしていないのだ。

それでもやはり、落ち着かない。彼のことが心配だというのは確かである。また、それが分かっていて動かないことに後ろ髪を引かれるような罪悪感も覚える。そんな弱った心がそうさせたのか、
「まさか、本当に鬼が……」
と、友人が掠れた声を漏らす。

何を馬鹿なと否定しようとした瞬間、
 

ドンドンドン
 

と堂の戸が叩かれ、その湿った音が胸に響く。何事かと振り向くと、強烈な丸い灯がこちらを照らす。続いて、二人の名前が呼ばれる。

それは、雨合羽に大きな懐中電灯を持った警官だった。

彼らは私達の姿を認めると、すぐさま近くに駐めたパトロール・カーがあるから、それに乗るようにと指示をする。誰かが我々を不法侵入か何かで通報したのだろうかと考えた後、ようやく居なくなった友人のことを告げなければと思ったのは、突然の物音にすっかり気が動転していたからだろう。

思いついたはいいがタイミングを失ってしまった。友人の失踪をいつ切り出そうかと思案しながら大人しく荷物をまとめる二人の背中に、年配の警官が声を掛ける。

曰く、姿を消した友人が廃寺からさらに奥で、若い女性の死体を見付け、電波の通じるところまで走って山を下り、通報したのだそうだ。
「無事だったんですね!」
と友人が警官を振り向いて声を上げる。

「ああ」とも「おお」ともつかぬ声を上げ、互いの顔を見合わせて喜び安堵する我々に、若い方の警官が、行方知れずの友人によく似た声でこう言った。
「――なんて噂を流したら、また君らみたいな奴らを連れてこられるかな?」。

そんな夢を見た。

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