第百六夜

 

正月呆けの抜けぬ身体にスーツを纏って家を出ると、早朝の凛と硬い空気に思わず首が竦む。新暦で年が明けたと言っても、春はまだまだ先である。

コートの襟に頬を埋めながら階段を下り舗装路に出る。寒々しく枯れたツツジの植え込みには霜柱が立っているらしく、所々が白く輝いている。

駅へ向かって人気のない道を進み、丁字路を曲がったところで、背後で犬が吠え、続いて小さく悲鳴が聞こえた。

振り向くと、黒毛の柴犬が年配のご婦人を、こちらへ向かい引き摺ってくる。何事かと一瞬身構えるが、犬の表情はいかにも嬉しそうに見え、少しならと思い犬の前でしゃがみ込み、撫でてやろうと手を差し出す。
「お忙しいところ……」と謝る老婦人に挨拶をしながら、白髪交じりの犬を撫でる。どうやらなかなかの老犬らしい彼は、顔やら首やらを撫でられながら、膝に載せた鞄へ熱心に鼻を擦り付けている。
「いつもこの時間にお散歩を?」
と老婦人へ問う。正月休みは別として、いつもの出勤時間にいつもの通勤路であるが、この御婦人にもこの犬にも見覚えがなかったからだ。
「いえ、本当はもっと早い時間に主人が……」

聞けば三ヶ月ほど前にご主人が亡くなって、以来勝手のわからぬまま、彼に任せてあちこちを不規則に散歩しているのだという。

ひとしきり話し終えるまで彼を撫でていて、彼の鞄への執着に気が付いた。どうも遊んでほしいとか撫でてほしいというのでなく、鞄の中身に興味があるようだ。

何がそんなに彼の嗅覚を喜ばせるのか興味が湧いて鞄を開けると、彼はやにわに鼻面を突っ込んで、文庫本を咥えて私の前に置き、行儀よくお座りをしてから私の目を見ながらワンと一声吠える。

本が好きな犬というわけでもならろうと、本を手に取って首を捻る私に、
「その栞、どちらで……?」
と老婦人が尋ねる。年始に初詣に行った折、そこで開かれていた蚤の市で目に付いた、革製の栞である。

どうやらご主人の蔵書を処分した際に紛れたものが売られ、私のところへ来たものらしい。それならお返ししましょうと提案するが、対価を払ったものを只ではと断られ、出勤時間もあるので、
「明日もここへお散歩にいらして下さい」
と言い、ひとまず栞は彼に預けることにしてその場は別れた。

そんな夢を見た。