第六百六夜

 

家庭教師のバイト先に着くと、教え子がマスク越しにもわかる笑顔で出迎えてスリッパを用意してくれた。ここ数週間ほど妙に表情が暗くなっていて心配をしていたのだが、何か悩みでも解決したのだろうか。

スリッパに履き替えて部屋まで歩きながら、数日前に終わったはずの定期テストで余程良い成績でも取れたのかと尋ねてみると、良くも悪くもなかったという。返却されたテストの答案を見れば、確かに劇的に改善したということはない。

お茶を出しに来た母親にお礼を言って受け取り、彼女が部屋を出て戸が閉まるのを待ってから、ここのところ調子が悪そうだったから実は心配していたんだと伝え、
「何か悩みが解決したの?」
と尋ねてみると、彼女は数秒きょとんとし、それから、なるほどと言って力強く頷いて、
「はい、実はこの間の日曜日、家に泥棒が入りまして」
と声を潜めて言う。

それは大事、普通なら笑顔で報告するようなことではないのではないかと首をかしげる私に、
「どうもお母さんのママ友に手癖の悪い人がいるようなんで、その人が犯人らしいんですけど……」
と、井戸端会議の奥様方のように饒舌に、こんな話をしてくれた。

数週間前、某国への出張へ出ていた彼女の父親が一体のフランス人形をお土産に帰国した。彼が某国のアンティーク・ショップで一目惚れしたというそれは如何にも薄気味悪く、居間に飾ろうという言う父に母と彼女が強く反対し、協議の結果玄関に飾ることにしたと言う。

言われてみれば確かに、先週まではそんなものを見掛けたような気がする。
飾ってみると、見た目の印象が気味が悪いだけでなくなった。父親は朝晩それに向かって「行って来ます、ただいま」と挨拶をするし、まだ幼稚園児の弟は御飯やお菓子を与えようとしたり、それを「まーちゃん」だか「あーちゃん」だかと呼んで話し掛けたりと、男性陣の行動が実に不気味だった。

彼女の表情が暗かったのは多分それで気が滅入っていたためだと言う。

ところがある日、彼女の母親が家にママ友数人を招くことになった際、件の手癖の悪いママ友がその人形をいたく気に入ったようで、あれやこれやと質問をする。そこで母親は一計を案じ、定期試験の終わった日曜は朝から夕方まで家族で出掛ける予定だと話して、当日の朝に「うっかり」鍵を掛け忘れてでかけてしまった。帰宅したときには既に玄関に人形の姿は無くなっていた。

不思議なのは父親と弟で、
「気味が悪いくらいに可愛がっていた筈なのに、帰ってきて人形が無くなってることに一言も文句を言わなかったんです。まるで最初から人形なんてなかったみたいに」
と眉根を寄せ声を低くして凄む彼女に、私の背筋も少し寒くなった。

そんな夢を見た。