第九十八夜
秋雨の冷たく降るとはいえ、たまの休日の勿体なさに散歩を兼ねて買い物へ出たが、夕刻の帰途もなお傘を打つ雨の勢いは衰えず、コートの襟に首をすくめながら、点々と街灯の灯る橋を渡る。渡った橋を振り返りビニル傘越しに橋の下を覗き込む。
折からの雨水を集めた川の水位は大分上がって、川原の石はほとんど隠れ、濁った水から草が疎らに突き出ているのに混じって、川岸に最も近い橋脚の下流側に寄り掛かるように、黒い上着を着た若い男が立っている。
――まだいたのか。
朝方に通り掛かった折、まだ濡れた石の並んで見えた川原で独り佇む男を見て、何をしているかと気になっていた。それでわざわざ覗き込んだのだが、上着を見ればどうやら同じ男のようだ。足元は踝辺りまで水に浸かっている。
――まさか、朝からずっとそこにいるのだろうか。
君子危うきに近寄らず。余程このまま帰ろうかとも思ったが、明日か明後日かの新聞に川の事故の記事が載るのでは寝覚めが悪かろうと、雨音や車両の走行音に負けぬよう思い切って声を張り上げる。
「どうされました。探しものか何かですか」
と問うと、若い男の叫ぶような声が、
「ああ、いえ。人を待っているのです」
と応える。
「こんな暗い中、川原でですか」
と問えば、
「いえ、待ち合わせは午前でした」
と返す。携帯電話の普及した今時分、朝方に見かけたときから待ちぼうけということはないだろう、きっと連絡を取り合って、改めて待ち合わせをし直しているのだろう。しかしそれでも、
「兎に角、上流でも雨は降り続いているそうですから、川は増水して危ない。上がって橋の上ででも待ち合わせは出来るでしょう」
と提案するが、
「いえ、ここで待つ約束なのです。きっと何か事情があって遅れているのでしょうが、約束をした以上はきちんと守るのが、約束をした者の務めです」
と言って聞かない。どうやら本当に、朝からじっと待ち続けているものらしい。そうする間にも、街灯を反射してきらめく水面は男の脛に這い上がっている。
いいから、一度上へと言うが、
「いえ、いえ。本当に結構です。ここで死んでも、男が約束を違えておめおめと生きるよりはよっぽどマシというものです。もし私が溺れて新聞にでも載るのなら、それは立派に約束を守ったのだということです」。
水嵩はいよいよ増し、男の膝には渦が纏わりつき、男は橋脚にしがみついてその場に留まった。
男は尾生と名乗ったきり、すっかり暮れて深い闇の流れる川に男の声の響くことはなかった。
そんな夢を見た。
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