第九十二夜

 
川へ釣り糸でも垂らそうかと思い立ち、始発から電車を乗り継いで山の中の駅へ降りた。改札を出ると小さな駅舎の前を通る細い舗装路があって、そこを五分も歩けば川岸へ下りるコンクリート製の階段があって、釣りに適しているかどうかはともかく、行き来に便利でよく通っているのだ。

腰を下ろして一時間もすると、秋とはいえ辺りはすっかり明るくなり、アタリも悪くなってきた。
――そろそろ終いにして、昼は自宅で塩焼きを肴にビールといこうか。
そんなことを考えながら、川石を重りに生簀代わりにしておいた網を持ち上げる。
――独り身の昼食にはいささか釣り過ぎた。少しばかり逃してやろう。

網の口を開いて川面に向かって屈み込んだ尻を、
「もし、旦那さん」
と若い男の声が叩く。振り返ると青白く痩せた男がボロを纏い、細い目でこちらというより網の中の魚を見ている。まだ少年と言って良いような年頃に見えるが、こんなところにこんな格好で、何をしているのだろうか。訝しみ警察への通報も考えながら、何か用かと尋ねると、存外ハキハキとした声で、時代がかった口上を述べる。
「あっしはまだ名乗る名も無い青二才、尻の青さに鉄砲玉、親元離れて勝手気儘に飛び回ってございました。ところがどっこい、忘れもしない二日前、あちらで野良犬めに左の脚をガブリとやられてございました。こっちもヤッコさんの首根っこをやっつけて追い払ってやったところまでは良かったものの、踏ん張りが利かないもんで碌な食事にありつけません。なんとか水だけでもと川岸で、傷の痛みの引くのを待っておりましたところ……」。

要は魚が欲しいらしい。私は三匹もあれば十分、残りは皆やってもいいのだが、生憎調理器具はおろか火も持ち合わせていない。
「いえいえ、あっしは生で結構。いやぁ旦那さんが太っ腹で助かりました、一生恩に着させて頂きますから、お覚悟なさってくんさいまし……」

川魚を生でいいものかとは思いながら、少年の怒涛の口上に押されているうちいつのまにやら荷物を片付け、帰りの列車に揺られていた。
 「これをお守りか何かに入れて、肌身離さず持ち歩いてくんさいまし。きっとご恩を返しに参りますとも」
と何かを握らされたことを思い出し、左手を開く。夕焼けと青空の境のような紫色をした豆の鞘が、車窓からの陽光を艶やかに照り返していた。

そんな夢をみた。