第六百二夜
流行り病にやられた同僚が二週間ぶりに見せた姿は、それはもう別人かと見紛うほどにやつれていた。本人曰く「運悪く肺に入った」そうで、始めの一週間は人工呼吸器の類を付けてほとんど身動きもとれず、次の一週間は感染症状こそ収まっていたものの、肺機能の低下で常に倦怠感が酷く、また少し動くだけで息が上がるようになってしまったのだそうだ。
そうしてベッドで過ごした二週間で、アメフト部出身の分厚く太かった彼の身体は見る影もなく細ってしまっており、
「一番酷いのは脚ですよ」
とスーツの裾をたくし上げて見せてくれた脛はもやしのように生白い。口々に同情の声を上げる同僚達に、
「まあ、マッスル・メモリに期待してこれから少しずつ鍛え直します」
と彼は力無く笑ってみせる。やがて始業時間が来てその場はお開きとなるが、彼を囲む同僚の中で一人だけ妙に難しい顔をしている女性が気になった。
昼休みを迎え、その難しい顔の理由を訪ねようと彼女を昼食に誘い、隣に椅子を持ってきて並んで弁当をつつく。適当に頃合いを見て先程の表情の理由を尋ねてみると、
「いえ、全然関係のないことなんですけれど」
と前置きして、
「植物にも記憶ってあるんですかね?」
と妙なことを言う。彼の口にしたマッスル・メモリと言う言葉からの連想らしい。
脳の海馬で行うものという意味での記憶が出来るわけがないのだが、
「田舎の祖父が盆栽を趣味にしているんですけれど、『木もモノを覚える』って言うんです」
と言う。どういうことかと尋ねると、盆栽の形を整えるのに彼女の祖父は障害物を使うのだという。
横に枝を伸ばしたくない場合に、そちらへ伸びようとする枝を剪定、つまり切っても、その後に伸びる別の枝がまた同じ方向へ伸びることが少なくないらしい。
ところが、透明なブラスチックの板などで壁を作りそちらへは伸びられない状態で一ヶ月ほど放置すると、その壁を取り去ってもそちらへ枝を伸ばさなくなる。その枝が壁を避けて曲がるだけでなく、そこから出る新しい枝もその方向を避けるのだそうだ。
それを彼女の祖父は、
「枝も切られちまったら覚えるも何もないだろう。邪魔なものがあることをちゃんと生きた枝に覚えさせてやらにゃ」
と表現したのだという。なるほど、確かにそういうこともあるかもしれないと頷くと、
「祖父曰くみんながみんなそうではなくて、『物覚えの悪い木』も少なくないそうなんで、たまたまなんじゃないかと思うんですけどね」
と、彼女は少し困ったような顔で笑うのだった。
そんな夢を見た。
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