第五百八十五夜

 

夜の日課のジョギングを早めに片付け、風呂で汗を流してさっぱりした体に冷房の冷気を浴びながら、簡単な夕食を片手にモニタでドラマを見ながら休日の夜を過ごしていた。

元々が出不精の人見知りなもので、外で過ごす時間が短いのは疫病騒ぎだからというわけでもない。頭蓋骨に筋肉の詰まっている兄が定期的に体力を落とさぬよう気を付けろと煩いため、学生時代から何故か得意だった長距離走を日課に取り入れてもう丸二年になるか。

パンに水分を補給すべく、モニタを眺めながらマグ・カップに作った即席のコーン・スープを啜る。

と、妙な香りがする。香水と油粘土の混ざったような香りで、端的に言って不味い。嗅覚は記憶との結び付きが強いと聞くが、その原因が瞬時に脳裏に浮かぶ。口を離したマグを目の高さに掲げると案の定、紅い口紅がべっとりと付着している。

テーブルの端に追いやっていた箱からティッシュ・ペーパーを取ってそれを拭うとまだ柔らかく、力を込めて二、三度擦ると綺麗になった。満足してもう一口啜ると、今度は何の臭みもない立派なコーン・スープの味と香りがして一安心だ。

マグをテーブルへ置いてモニタに目を戻し、フォークを取ってサラダに伸ばして気付く。
――はて、今の口紅はいつどこで付着したのだろう。
フォークを持った手を口元に持ってきて、人差し指の背で唇を拭う。勿論口紅の感触もなければ色も付かない。こちとら風呂を上がったばかりだし、そもそもマスク生活が染み付いて、ジョギング程度のことに口紅までして出掛けないのだ。

気の所為だと思いたいのは山々だが、マグの縁を拭って赤い染みのしっかりと付いたティッシュが、テーブル脇の屑籠からこちらを見ているのだった。

そんな夢を見た。