第五十八夜

路線バスを降りると、空梅雨のお天道さまがじりじりと肌を焼く。帰りのバスの時刻を確かめようとバス停の時刻表の前に身をかがめると、川を渡って来る風が肌の熱を幾らか奪ってくれるのに気が付く。

その風に乗って、某園の狐の噂がどうとかいう若者の声が耳に入ってくる。某園とは、元は藩のお殿様ご自慢のお庭だったところへ明治に洋館を建て、今も管理人を住まわせて公園にしている、ちょっとした観光名所である。

このバス停から川沿いの道を上流へ十分も歩けば着くはずで、私の今日の小旅行の目的地でもあるが、野生の狐がいるというのは初耳で、バス停の日陰で涼みながら彼らの声に聞き耳を立てる。

女の声が言う。

管理人の老爺が狐に化かされたと、同居している祖母に聞かされた。なんでも春の花見頃、庭で花見をした客が帰り際、一升瓶と折り詰めを差し出して、よかったらお仕事の後にどうぞと置いていったのだが、ゴミを片付け散った桜を掃き清め、洋館に戻って開けてみると折り詰めには犬の糞、一升瓶には小便が入っていたという。管理人はもう怒り心頭で、今度あの狐どもが来たら只じゃ置かない、姿が見えたら問答無用で叩き殺してやるんだと、管理人室に金属バットを用意したとか、しないとか。

それを受けて男がけらけら笑って言う。

迷信深い爺さんだ。二十一世紀というのに化ける狐のいるものか。いいか、ここだけの話だが、それをやったのは俺なんだ。だれそれとだれそれの三人で花見に行って、帰りに爺さんをからかってやろうと思ってな。もともと狐の化けて出る山だとは、俺も子供の頃に聞かされていたからな。それにしても真に受けるとは、頭が古いというのは可哀想なものだ。

そういう内容を、とても文字にする気にならぬような汚い言葉で言ってさも楽しげな笑い声を上げるので、流石に女は「なんと愚かしいことを」と批難する。が、男の方は冗談のわからぬ奴と言って今度は女に文句を言い始める。

これ以上は聞いておれぬ。バス停の日陰をそそくさと後にして、川沿いの道を上ることにする。川岸の叢に糸蜻蛉が飛び、中洲には亀が甲羅を干しているのを眺めながら歩くと、幾らも歩いた気がしないのに某園へ着く。

内から一際涼やかな風の吹くのに逆らって入り口へ歩み寄ると、受付の小窓に白髪を綺麗に短く刈り込んだ老爺が見える。

財布を取り出して入園料を払うと、彼は紅葉した庭の印刷してある入場券を差し出しながら、
「今なら独り占めですよ」
と、落ち着いた声で笑うので、それは贅沢だとこちらも笑みを返す。

券を受け取りながら、先程の女の言葉を思い出す。この落ち着いた紳士が、叩き殺すのなんのと怒り狂う様は想像し難い。いや、人間なんて外面から心の裡はわからぬものではあるのだが……。
「そうそう、狐に気を付けて」。
お辞儀をして奥へ向かおうとしたところ、老紳士が呼び止める。
「狐が出るんですか」。

とぼける私に、老紳士は先程女が話した通りのことを語って聞かせ、傍らのバットを持ち上げて見せながら、
「次にあの顔をみたらね、こいつでポカリとやってやるつもりですよ」
と勇む。何か腑に落ちぬ物を感じて、
「その話は、ここへ来る方みんなになさるんですか」
と問うと、
「ええ、そうですとも。お陰で噂が広まって、狐どもの耳にも入ったんでしょうか、あれ以来、奴らの姿は見てませんよ」
と白い歯を見せる。

なるほど、狐の一枚上手とは見事なもの、愚かなのはあの若い男の方であったのだと得心が行く。幾ら道理を弁えぬ無作法者といえども、狐を本気で殴るつもりの管理人がいると噂されれば、二度とここへは顔を出すまい。

空と同じく雲一つない心地で、私は園の奥へ歩き出した。

そんな夢を見た。