第三百八十夜

 

定時の巡回から帰るなり、
「いや、参った。汗だくだから、ちょっと着替えるわ」
と、先輩は毛むくじゃらの手に持ったタオルで顔の汗を拭った。どうぞと答える暇もなく彼はロッカを開けると上着を脱ぎ始める。

空調を切った真夏のビルは急速に気温が上昇する。コンクリートが昼の内に貯めた熱を放出する一方、断熱性の高い窓は閉め切られて風も吹かないから、深夜になろうといつまでも蒸し暑いままなのだ。

リュック・サックの中身をゴソゴソと弄りながら、
「お前さん、着替えは持ってきてるのか?」
と先輩が尋ねる。自分は晩秋の生まれだからか余り汗を掻かないので、制汗スプレーで事足りると答えると、
「じゃあ熱中症の方に気を付けなきゃだな」
と、塩分補給用の飴をやるという。

振り返り、下手で緩く放り投げられた飴の包みを受け止めて、
「それ、手首から上だけ剃っているんですか?」
と思わず声が出る。

下着のシャツ姿の彼の肩から腕まではつるりと白く、目立った毛が生えていないのだ。普段は制服の袖から先、毛むくじゃらの手しか見ていないから、服の下も当然毛深いものと思っていた。暑さ対策だろうかと考え、それなら手の甲の毛だって剃るだろうと頭の中で否定する。
「ああ、これな。元々こうなんだよ」
と彼は笑い、着替えを続けながら、
「うちの家系の昔話だけどな」
と切り出す。

はっきりいつとは分からないが、江戸時代の初めの頃らしい、参勤交代でお殿様が山の中の街道へお成りになった。近くで野良仕事中だった百姓達は仕事を中断して道の脇へ参じて平伏し、行列のすぎるのを待ったのだが、折り悪く猿が一匹やってきて行列に襲い掛かる。

勿論お侍が猿に遅れを取るはずもないのだが、かといって物の道理もわからぬ畜生のすることに命まで取るのも情けない。そう考えた警護のお侍は、ヤッと腰の刀を一閃すると猿の手首を切り飛ばし、猿も悲鳴を上げて近くの林に逃げ帰った。

さて一件落着と思ったお侍だが、今度は道で百姓が唸る声がする。見れば先程刎ねた猿の手が、百姓の首へぐいと爪を立てて掴みかかっている。

百姓達は決まりだから顔を上げるわけにもいかず、お侍はお殿様にお伺いを立てて行列を止め、数人がかりでやっとその猿の手を引き剥がした。

騒ぎを聞きつけたお殿様は家老の引き止めるのも聞かずに駕籠から降り、随行の医者に百姓の首の傷を手当てさせ、
「猿の仕業が事のはじめとは言え迷惑を掛けた」
と詫び、猿の手を刎ねた刀と殿様の羽織っていた着物とを迷惑料に授けた。傷は痛むが丸儲け、百姓は有り難くこれを頂戴した。

ところがその晩、その百姓の夢に片手の無い猿が出て、
「よくも俺の手を斬ってくれた。そんなに俺の手が欲しけりゃあ、末代までくれてやらぁ」
と啖呵を切った。
「その百姓が俺の祖先なんだそうだ。呪いなんて信じちゃいないが、親父も爺さんも同じ手なのは本当でな」
と言うと、先輩は手の毛を撫でながら、
「ご先祖様が刀なんて受け取るから、斬ったお侍と勘違いされて猿に呪われたんだって、爺さんが怒ってたよ」
と笑った。

そんな夢を見た。

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