第三百六十二夜
帰宅時間がラッシュに重なるのが嫌で、このところは会社の指示に逆らって幾らか残業をしてから帰宅することにしている。といっても緊急事態宣言以前よりはむしろ早い時間なのだが、数駅も走ると列車は以前と比べ物にならぬほどがらがらになる。
テレ・ワーク中に鈍った身体は未だに体力を取り戻せず、座席横の衝立に身を凭れてついうとうとしてしまう。
どれほどそうしていたか、ふと隣に人の気配を感じて目が覚める。目を閉じた時点で車内は閑散としていたから、わざわざ人の隣に座るというのは只でさえ不自然なのに、それに加えてこのご時世である。到底まともな人間とは思えない。
どうにか最寄り駅まで無事に過ごしたいという願いは直ぐに打ち砕かれ、ストッキングの膝へ生暖かい手の感触がやってくる。まだはっきりと目覚めていないフリをして、虫でも追うかのように手で払い、軽く身じろぎして牽制するが、間を置かずにまた手が膝に乗る。手が手に触れるのも嫌なのだが、膝をまさぐられるのはもっと嫌、背に腹はかえられぬので、もう一度手を振り払う。
と、ちょうど電車が減速して最寄り駅に付いたので、少々わざとらしいほどはっと、さも今アナウンスで目が覚めましたという風に顔を上げて席を立ち、ドアの前へ回り込んでその開くのを待つ。やはり向かいの七人掛けの座席には誰一人として座っていないので、やはり意図的な痴漢だろう。
そう思うと腹が立ち、一応ご尊顔を拝んでおいてやろうとチラリと先程まで座っていた席を見る。が、誰もいない。隣のドアの前にすら人はおらず、更に一つ先のドアの前に一組の大学生風のカップルが立っている以外は、皆落ち着いて座席に座っている。
目を開けてから、席を立って衝立の裏へ回り込んだだけで、二秒もかかっていないだろう。痴漢が慌てて逃げたとしても、その後姿も見えないなんてことがあるだろうか。
急に背筋が寒くなり、開いたドアからホームへ降りると、足速に改札へ向かった。
そんな夢を見た。
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