第三十五夜

残業に区切りが付いた。鞄を肩に掛けて席を立ち、事務所を消灯して施錠する。共用部分は既に照明が落とされて暗い。エレベータ・ホールでエレベータを待つ。

と、共用廊下の先の灯が気になった。灰皿付きの大きな空気清浄機の周囲に革張りの長椅子がコの字に並べられ、コの字の空いた一辺には紙コップの飲料を売る自動販売機が置かれていて、フロア内の各事務所員の利用する喫煙スペースになっており、自販機の灯がその一画だけを、ナイフで切り抜いたように照らしていた。

自分はタバコを吸わないので、その手前のトイレを利用する際に様子が目に入ることはあったが、そこを利用したことはなかった。

何とは無しに足が動いて、気が付くと自販機の前に立っていた。飲料を冷却する音なのか、それとも保温する音なのか、或いは照明が発する音なのか、自販機から低い振動音が聞こえる以外は全くの無音。

学生時代には学食に設置されたそれをよく利用したものだが、もう何年も紙コップ式の自販機を利用したことがない。折角だから、この革張りの長椅子を独り占めするのも悪くない。何か糖分の補給できそうなものをと思い、鞄に手を入れ財布をまさぐっていると、
「火を、貸していただけませんか」
と声を掛けられたので、丁度手を突っ込んでいた鞄からダンヒルのオイル・ライタを取り出し、後ろ手に空気清浄機の上に
「どうぞ」
と置いた。外の人との仕事に備えて腕時計と万年筆、火と携帯灰皿は必ずそれなりのものを鞄に入れておけとは社長の言い付けで、祖父の形見分けで譲り受けたそれを常に持ち歩いていた。

数秒の間を置いて、センサ式の空気清浄機がウウウと唸り、働き出した。
「お洒落なライタだね、ありがとう」

そんな夢を見た。