第三百三十一夜
いつもの様に夕飯の買い物から帰って玄関の前へ自転車を停め、蛇腹の門扉を閉める。
花粉も飛び、そろそろ啓蟄というのに、六時を回ると辺りはすっかり暗く空気も冷える。歳で曲がった背中を寒さで更に丸くしながら自転車カゴの買い物袋を下ろそうとすると、小さな庭の垣の辺りから、シャーと猫の威嚇するような声が聞こえる。
おやと思って振り返ると、街灯の届かぬ茂みから小さく尖った黒い鼻が突き出し、その下に小さな白い歯が見える。猫の口周りではない。
ああそうかと思い、上着のポケットからスマート・フォンを取り出し、写真を撮ろうとしゃがみ込んで構える。暗視撮影モードの緑がかった色調で、こちらに牙を剥いて威嚇する一頭の狸が写る。
小さな鎮守の林が近くにあって、恐らくそこに住む狸だろう。我が家の庭にやって来て、掃出し窓のガラス越しに猫とにらめっこをしているのを時折見かけることがあった。狸というのは溜め糞をするそうで、そういう害がるでない。だから、そういうときはそっと二匹の様子を眺めることにしている。
写真を撮るカシャカシャという音に驚いたか、狸は垣の茂みから飛び出して、アスファルトの道路を渡って向かいの家の植え込みへ消える。
いくらか写真の撮れたことに満足して立ち上がり、今度こそ荷物を引き上げようとすると、再びシャーと音がする。おやと思って再び振り返ると、先程の茂みにもう一頭狸がこちらに牙を剥いて威嚇している。
顔付きでたぬきの見分けが付くほど見慣れてはいないけれど、先程の狸とは別狸なのだろう。庭で二匹を同時に見ることはなかった。
ひょっとすると兄弟姉妹で旅をしているとか、縄張り争いだとか、そういうことが都会の端のベッド・タウンで人知れず繰り広げられているかと思うと、懐かしさに似た奇妙な安心感を覚えた。
そんな夢を見た。
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