第二百九十夜

 

電車を降りると海風が強いのか、磯の香りが鼻を付く。こういう晩は天気予報に関係なく弱い雨の降ることが多い。

外に干した洗濯物を心配しながら牛丼のチェーン店に入り持ち帰りの注文をして、カウンタ席の客の後ろの壁沿いに並んで立つ。

ほんの一週間前までは自分も席に座って食べていたのだが、持ち帰りの方が安いとなれば、容器を捨てる手間くらいは我慢して家で食べようという気になるものだ。インスタントの味噌汁やらスーパーマーケットのカット野菜やらと組み合わせて食べる分、安上がりながら却って、気休め程度に健康的な食生活に近付いた気もする。
「あの種、どうした?」。
店内放送に混ざって、そんな言葉が耳に入って来る。

母が土弄りを好んだもので、特に園芸趣味のあるつもりはないが、一人暮らしを始めてから、何とはなしに手間の掛からぬ小さな鉢を出窓に置いている。そんな耳だから、この時期に種を蒔くなら春咲きの花か、どんな人が話しているのか、そんなことが気になって客席を見渡す。

が、数人組で来ている客も多く、店内放送の雑音と相まって声の出処は掴めない。
「何だ、勿体ない」。
先程と同じ声がする。何となく店内の掲示物を眺めながら耳をそばだてると、
「急に大きく……、……気味が悪くて……」
「それは……、仕方がない……」
「あんなに……、今朝なんて……メートルも動いて……」
などと、断片的な会話が聞こえる。
――動く?種から生えて?
一体何の話だろうか。それとも、別々の会話がたまたまタイミングよくやり取りされているのを勘違いして聞いているだけなのか。

そんな疑問に頭が埋め尽くされたところで持ち帰りの牛丼が出来たと呼ばれ、受け取って店を出る。

空は駅前の街の灯で照らされた低い雲に覆われていて、一刻も早く洗濯物を取り込むべく駐輪場へ歩を早めた。

そんな夢を見た。

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