第二百八十五夜

 

ソファ・ベッドの前に置いた低いテーブルに酒とツマミ、大型モニタにネット配信の映画を流す用意をして部屋の電灯を消してから、このささやかな宴の前に用を足しておこうとワンルームの戸を開けて便所に入り、便器の蓋を上げる。

小さな古アパートの二階の角部屋で、便所にも風呂にも窓があるのが気に入ってこの部屋を選んだのだが、隣のマンションの駐車場を照らすLEDの光が窓から差すので深夜でもそれなりに明るく、灯りが要らない。電球自体は付けてあるが、電気代の節約になるかと思っているうちに、スイッチを押さない癖が付いた。

便座に腰を下ろすと、アパートの廊下の向こうから、
「おい、奥へ行ったぞ」
と男の怒声が飛んできた。二棟並んだアパートとの間の庭の辺りからだろうか。
「おい、そっちだ」
「逃がすな」
男たちのドスの利いたやり取りに、防犯のため庭へ敷かれた玉砂利を踏む高い音が交じる。

普段静かな住宅街で初めて聞く喧騒に背筋が寒くなる。ここへ座っていることを気取られてはならないような気がして、じっと息を潜めたまま便座から尻を離せない。剥き出しの尻が心許ないが、音を立てるのも無闇に恐ろしく、便座に座っている他ない。

そのまま何分経ったろうか、
「おう、居たぞ」
「待てや」
などの怒号と激しい足音を最後に、表はすっかり静まり返って、漸く便座を立って水を流す。

手を洗い、冷めたツマミを電子レンジに入れて温め直しながら、警察に通報するべきか、せめて大家にでも連絡をするべきかと考えて、余計なことに首を突っ込むべきではなかろうと結論付け、モニタの前へ座り込む。

我ながら冷たいものと情けない。が、触らぬ神に祟りなし、君子危うきに近寄らずと言うではないか。そう酸っぱい葡萄を決め込んで、映画と酒とを味わうことにした。

そんな夢を見た。