第百八十一夜
トイレから戻ってきた年配の上司が、手術前の外科医のように胸の前に両手を上げながら、椅子の背もたれに掛けた上着のポケットからハンカチを出してくれと言う。
中腰になって向かいの席に手を伸ばし失礼しますとポケットを探ると、確かに柔らかな布の手触りがある。それを摘んでポケットから引き抜くと、妙な抵抗の後、ぽんと何かが飛び出して、定食屋の床に転がった。
一先ず彼にハンカチを渡し、何が落ちたかその行く先を確かめようとすると、隣の卓の女性が怪訝な表情で、
「これ……」
と、直径十センチメートルほどの輪っかを差し出す。例を言いながら受け取ってみて、彼女の表情の理由がわかると共に、私も同じような顔になって、上司を振り返る。
「どうして使い終わったセロハン・テープの芯なんて持ち歩いてるんですか?」
と問うと、一瞬眉根を寄せた後、
「あっ、またか」
と苦笑しながら芯を受け取る。
何がまたなのかと問うと、
「何がきっかけだったのか、物心付いた頃から、半年に一度くらいのペースでかな、こういう身に覚えのない役に立たないものがポケットや鞄、机の引き出しなんかに入っていることがあるんだ。ペット・ボトルの蓋とか、鍵の無い南京錠とかね」
とこめかみを掻く。ただ、
「ただ入っているだけならまぁ捨てればいいんだけれど、これが起こるとその日のうちに必ず、身近なところで何かが無くなるんだよね。たまにしか使わないような、ボタン型電池の買い置きとか、掃除機のフィルター掃除用の小さなブラシとか、普段どこかに仕舞っておいて、あるかどうか気にも留めないようなもの。そういうものがきまってその日のうちに必要になって、いざ探すと定位置に無い」。
面倒でないものなら好いんだけれどと、彼は片眉を上げておどけてみせた。
そんな夢を見た。
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