第二百三十七夜

 

初めて乗った高級外車の座席は信じられぬほど柔らかく、座った尻が浮いているようでまるで落ち着かない。運転手の紳士も物腰は柔らかく丁寧な対応だったが、生真面目に無口で居心地がよろしくない。

この高級車に、デニムのパンツとブラウスにカーディガン、薄い春物のダウンというまるで場違いな服装の私が乗っているのは、笛の演奏依頼を受けたからだ。

やはりメールでの遣り取りで遠慮しておけばよかったかと後悔する。

何の機会か、どんな曲かと問えば、何でも無いのだが自宅へ来て、一曲でいいから吹いて欲しいという。日時も服装も、演奏料でさえ、なんでも良い、こちらの都合の良いように決めてよいから、兎に角一曲と言うばかりで、極めて不自然だった。

それでも依頼を受けたのは、単に報酬の金額が桁違いだったからだけでない。初めに某市の市長を名乗っていたからだ。調べてみると、いわゆる地元の名士の家柄で、さして名の売れてもいない笛吹きを騙して得があるとは考え難かった。

見事な庭を通って玄関の前に車が止まり、
「ご苦労様でございました」
と手を借りて車から降りると、和装の御婦人が深々と頭を下げ、中へ招く。

柔らかな緑に包まれた庭を横目に歩き、床の間付きの座敷へ通されると、これまた和装の壮年男性が、分厚い木の卓の前で立ち上がり、
「不躾なお願いを聞いて頂き……」
と頭を下げ、座布団を勧めてくれる。

とんでもないと返しながらそれに従うと、この座布団がこれまたかつて無い柔らかさで、今度は脛が落ち着かない。

直ぐに御婦人が香りの立つお茶を勧めに戻ってきて、三人で卓を囲む格好になった。
簡単な初対面の挨拶を済ませ、鞄から笛を取り出して見せながら、
「いつ、どちらで吹けば」
と問うと、ご主人は手を胸の前に突き出してそれを制し、
「今日お呼びしたのは……こちらを吹いて頂きたいのです」
卓に置いてあった絹の袱紗をこちらへ押してよこす。
開けてよいものかと尋ねると、
「初めに、事情を説明したほうがよろしいのでは」
と奥様が促して、ご主人が頷く。
「実は……」
と袱紗を手に取って解くと、飴色の篠笛を取り出して袱紗に乗せ、卓へ置く。一目見て、見事な笛だとわかる。これまで仕事で、幾つかの神社に古くから伝わるものを触らせてもらったことがあるが、それらのうちでも最も古いかも知れない。
「この笛が夢に出て、吹いてくれと泣くのです」
と眉を寄せる。曰く、初めは奥様の夢に出て、気のせいだと放っておいた。ところが暫くするとご主人も同じ夢を見た。
「しつこく話を聞いたから気になって、それで妻と似た夢を見たんだろうとは思うのですが」
「気の持ちようなら、吹いたら晴れるでしょうと説得致しまして」
と二人で言う。

ところが、二人もその親族にも、笛の覚えのあるものがいないため、私に白羽の矢が立ったのだそうだ。

なるほど、こんなに古い笛ならば、そんなこともあるかも知れぬと思いながら笛に手を伸ばすと、飴色の肌は冷たく指先に吸い付いて、全身の肌が粟立った。

そんな夢を見た。

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