第二百七夜
雪の降る前に、今年最後の山登りをしようと出掛けてドジを踏んだ。斜面を大きく滑落して腰を打ち、谷の小川の岸で身動きが取れない。万一を考えて数日分の食料と寝袋とは用意してあるが、登山道から大きく外れたこんなところで、年の瀬に誰が通り掛かるだろう。
山が好きで山に入るのだ、そこで死ぬのなら本望だと平素から他人に言って、実際そのつもりであったけれど、実際こうして死が現実のものとして迫ってくると、そんなものは地に足のつかない譫言だったと痛感する。
生きたい。まだ死にたくない。腰の痛みで動けない他はこんなに健康なのに。死を前に食うのがこんな冷たい非常食か。そう思うと悔し涙が止まらない。
奇跡的に誰かが訪ねて来るのを期待して、荷物を解いて寝袋を取り出す。少しでも体力を温存し、少しでも長く生き延び、少しでも長く奇跡を待つことが出来るよう、腰の痛みに身を捩りながら、どうにか寝袋に身を包む。
そのまま眠っていたらしい。薄目を開けると、日がすっかり傾き空が朱に染まっている。
「何だ、生きていたか」
と、老人のような嗄れた声が降ってきた。驚いて視線を声の方へ向けると、ぼさぼさの長い毛の塊の中から瞳が二つ、こちらを見下ろしている。驚き、身じろぎして腰の痛みに襲われる私に、
「何だこれはと思ったな」
とそれが言う。
「サトリか、と思ったな」
「この際、妖怪でも何でもいい、命を助けてはくれまいかとも思ったな」
「やっぱりサトリかと思ったな」。
ボツボツと一方的に呟くと、それは踵を返して薮へ歩きだす。その背に向けて、お前がサトリなら、私がどんなに生きたいと思っているか分かるだろう、後生だから助けてはくれまいかと必死に乞うとそれは立ち止まり、
「助けてやれん訳ではないが、ワシが助けるとお前もサトリになる。それでも助かりたいか?人の心は恐ろしいぞ。ワシが山に住みたくなる程じゃからな」
と言うと、全身の毛を揺すって笑った。
そんな夢を見た。
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