第二夜


「ほら、見えてきましたよ」
強いくせ毛に彫りの深い赤ら顔の男が船首の向こうを指差した。指の先には分厚い黒雲の下に赤紫色の遠い空、さらにその下に、
「あれが地獄の観光名所、地獄富士でさぁ」
と男が自慢気に言う通り、円錐形の黒い山影が小さく見えていた。

波も無くただただ広大な池を行く船は揺れもせず快適で、それだけに客にとっては退屈なのをよく分かっているのだろう、男は時折額の上に突き出た小さな二本の角を撫でながら、内燃機関の出す大きな音に負けないよう声を張りながら喋り続けた。

ここのところ地獄も不景気なもんで、私も二十万年勤めたところで首を切られましてねぇ。公務員は首にだきゃあならねぇというから、針山地獄の針の血糊拭きなんてぇ仕事もコツコツ真面目にやってたんですが、すっかり騙されましたよ。

最近は地獄もねぇ、人権だのなんだの小煩くなっちまって、刑罰も非人道的な拷問だとか拘束だとはいかんということになったんですわ。今じゃ、面白くもなんともねぇ映画を見続けなきゃならねぇ駄作映画地獄とか、何の取り柄もねぇ馬鹿を褒め称えて機嫌を取る胡麻擂り地獄とか、生っちょろい地獄ばっかりになっちまいまして。それもねぇ、長時間続けての拘束は人権問題だとか言って、一日きっかり八時間、昼飯の後は休憩付きで、獄卒の私らより良い待遇ですよ。

この血の池地獄だってねぇ、女性差別だって騒がれてからは、ホラ、私クビになったのが針山地獄でしょ、そこから血を引いてたんですがね、それも拷問だって止めちまったもんで、今じゃあご覧の通り真水を張った、真っ青なただの池ですわ。ちょっと前までは罪人共の血で血生臭くて赤黒くてそりゃあ絶景だったんですがね。そういやぁ、現世じゃ環境ナントカいって煩いんでしょ。あぁそうそれ、環境アセスメントですよ。そりゃあねぇ、目先だけ変えようってんじゃぁいけない、何かでっかく変えようってなら、他にだってでっかく変わるとこがそりゃあるでしょう。それで嬉しい奴だって居るかもしれないけど、迷惑する奴だって居て当然だもの。地獄の官僚連中も不景気だからとにかく客を増やさにゃならんって、結局は懐具合の勘定ばっかりで、ヒラの生活だとか環境だとかは、ちぃとも考えちゃないんでしょうなぁ。

そこでですよ、同僚と一緒に退職金を叩いてこの船を買いましてね、「安全安心な地獄見物」を売りにしたらこれが大当たりで。官僚共もね、あいつらの「人権に配慮したヒトに優しい地獄」を現世の人間にアピールするのにちょうど良いってんで、補助金を出すとかナントカ。ただあいつら、交換条件に天下りを受け入れろとかいうんで蹴ってやりましたよ。

大口を開けて笑う彼に合わせて船が大きく揺れ、よろめいて尻餅を搗いた乗客に手を差し伸べながら彼は無礼にならない程度の陽気さで頭を下げる。乗客を引き起こしながら背後を降り返ると、
「だいぶん、近くなりましたよ」
と言って地獄富士を見るよう促した。

見ると、おそらく安物ではあろうが比較的清潔な衣服に身を包んだ人々が幾重にも、幾重にも、幾重にも積み重なってうず高く天に向かっている。時折、重なりの縁のところから足を踏み外したものが山の稜線を転げ落ち、それを繰り返すうちに円錐形の山体ができたもののようだ。また遠目には黒々と見えていたのも、彼らの衣服がそれぞれに鮮やかな原色で、ちょうど何色もの絵の具を練り合わせれば黒に近い茶色に見えるのと同じ道理と知れた。

間抜けにも大口を開けて感嘆の声を漏らして山を見上げる我々乗客に、彼は満足気な笑みを湛えて解説を再開した。

こちらが今回の見どころ、地獄富士こと蜘蛛の糸地獄でさぁ。天から垂れる蜘蛛の糸を伝って上まで登れりゃ晴れて無罪放免、極楽浄土にいけるっていう、あれも人権時代の新しい地獄ですわ。糸一本垂らしときゃ、登るも登らぬも本人の自由なんで、獄卒が虐めるわけじゃ無し人道的にも問題なし、管理も責めの手間も掛からないから、人件費も掛からないで官僚にも嬉しいって寸法で。

まぁ地獄に落ちるようなニンゲンってなぁそういうもんで、自分のためなら人の顔だろうとなんだろうと平気で踏んづけるんだから救えないもんですねぇ。

あ、あっちに船が見えますかね。随分近くによってるでしょう。あれはね、ウチの若いのに添乗員を任せてるんですがねぇ、極楽の連中を乗っけてるんですよ。全くあいつらも酷いもんでしてね……。

そんな夢を見た。

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