第百八十四夜

 

夕方から夜通し車を走らせて、東北のある山中の川岸へ付いたのは丑三つ時の闇の中だった。

高速道路は混む様子もなく、禁漁期間前最後の休日と意気込んで張り切りすぎたか。朝間詰めまでは暫くある。夜道の運転で疲れた目を車中で休ませることにして、助手席の荷物を漁り、適当に握り飯を手に取って頬張る。具は梅干し。残る二つはイクラと昆布の佃煮。魔法瓶に淹れてきた熱い茶で、口の中をさっぱりさせ、座席の背を倒して目を瞑る。

ややあって、コンコンと窓を叩く音に目を覚ます。辺りはまだ濡れたように黒い闇に覆われているから、大した時間寝ていたわけではないようだ。

叩かれた窓を振り返ると、一面の闇の中にただぼんやりと黒い人影が背を曲げてこちらを覗き込んでいるように思われる。

小さく窓を開けてなにか用かと尋ねると、土地の訛りの強い老婆の声が窓の隙間から返ってくる。こんなところで何をしているのかと尋ねているらしいと察して、釣りに来たはいいが早く着きすぎたので時間を潰しているところだと答える。こんな深夜の山中でのことだから、自殺かと思われたのかも知れないと思うと申し訳ない。

続けて何事か尋ねられる。言葉の調子で何を釣りに来たのか問われているものとわかり、
「ヤマメの禁漁期に入る前にと思いまして」
と答えると、相手は途端に声を荒らげた。

曰く、釣るのはいいが出来れば逃がせ、決して食ってはならない、どうしても食うなら山を下りて自分の家へ帰ってからにしろという。その理由を尋ねると、ここのヤマメは水神様のもので、食えば代わりにお前が食われる、食われず済んでも祟られて、お前の住むところは七日七晩の大嵐に遭うのだという。

今の時代に祟りなどとは頭の古い婆さんだとは思いながら、調理器具は持ち合わせていないから、少し釣れたら持って帰る。勿論、川魚を生で食うような馬鹿ではないと言うと、それでも食わない方が身のためだというようなことを呟いてから、
「おおそうじゃ、何か代わりの食い物を備えるといい」
と満足そうに独り頷き、車から離れていった。

こんな夜中の山中に、妙な婆さんも居たものだ。窓を閉め直し、茶を飲もうと助手席へ手を伸ばすと、握り飯の包みが一つ、失くなっていた。

そんな夢を見た。