第百二十夜

 

送別会を終えて最終電車の無くなった部下の二人を下ろすと、運転手と二人になったタクシーの車内は急に静かになって、時折鳴る無線の他にはほとんど無音かと思われた。

ラジオかテレビかでもという運転手の提案を遠慮すると、深夜の幹線道路の脇に目を引く景色があるでもなく、酒の酔いも手伝って瞼が急に重くなる。

目を閉じるとタイヤがアスファルトを掴む音が酔った心身を埋め尽くし、それが心地が良い。

どれくらい走ったか、音が止んだのに気付いて目を開けると、運転手とルーム・ミラー越しに目が合う。
「お客さん、お急ぎでなかったら、一分だけ宜しいですか?」
何のことか検討も付かずに辺りを見回すと、車は赤信号の交差点の手前二十メートルほどのところ、左に寄せて停車している。ウインカの点滅を知らせる音だけが、カッチ、カッチと車内に響く。先の交差点の角にコンビニエンス・ストアが見えて、何か買い物だろうか、否、客を乗せながらそんなことはあるまい、ならば腹具合でも悪いのかと思い付き、
「ええ、大丈夫ですか?どうぞ」
と、暫く使っていなかった喉から掠れた声で答える。

返答を聞いた彼は、
「すみません、有難うございます」
とメータを止め、ダッシュボードを開けて数珠を取り出すと顔の前で手を合わせて目を閉じる。

呆気にとられたのは一瞬で、彼のいかにも真摯な様子に、私も倣って目を閉じ手を合わせる。

先に目を開けたらしい彼が私の手を合わせているのに気付いて、
「有難うございます」
と頭を下げる。

彼は得心の行かぬ顔をしていた私に気付いていたのか、信号の青になるのを待って車を出し、
「あすこの交差点でね……」
と語りだした、

昔良くしてくれたタクシー会社の先輩が事故でね、亡くなったんです。会社の方で裁判をやって、ほとんど貰い事故だったそうです。もう十年も経ちますか、通り掛かって思い出したんですが、今日は月命日だったので。
「変なことを言って申し訳ない」
とミラー越しに謝ると運転手はメータに手を伸ばし、
「少しだけ、迷惑料です」
と笑った。

そんな夢を見た。

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