第三百三十六夜
当直の夜、消灯時間の見回りを終えて事務所に戻り、珈琲メーカのスイッチとテレビの電源を入れ、スポーツ・ニュースを探してチャンネルを弄る。
老人介護施設の当直といっても、重い病気や痴呆の入居者がいないから、楽なものだ。消灯と深夜の見回り、早朝の業者との遣り取りと起床時刻の呼び掛けだけが仕事で、後はずっと待機時間である。
戸棚からカップを取り出して珈琲を注ぎ、連絡事項の書かれた書類に目を通す。入居者に提出してもらう日誌から、体調不良だとか寝付きが悪いとかの内容を抜き出し、各人の資料と照らして薬を求められたらコレを出せ、アレは出すなといった情報を先回りして纏めたものだ。
テレビから聞こえる野球関連の話題を聞き流しながら目を通していて、気になる記述を見つけた。
「深夜、下の階からゴムが床を擦るような音が聞こえる」。
報告者を見ると、食事や催し物に使う広間の直上の部屋の入居者だ。広間の鍵は夜間でも特に掛けることはないから、入居者ならば誰でも入ることは出来る。が、厨房とテーブルと椅子の他には何もないから、わざわざ降りてくる人もいない。
誰かが徘徊でも始めたろうかと心配になり、時折様子を見に行こうとスマート・フォンで一時間毎のアラームをセットして、鞄から取り出した本を読む。
暫くして珈琲のお代わりを取りに席を立つと、事務机の上のスマホがアラームで振動する。切りが良いので先に広間を見回ろうかと事務所を出て受付のカウンタから懐中電灯を手に取って灯を点ける。
と同時に広間のある左手から、車椅子に乗った老人が、懐中電灯の灯の輪の中を勢いよく通り過ぎる。
思わず「うわ」と声が出ると同時に相手も同じ声を出し、車椅子の倒れる激しい音が続く。
大丈夫かと大声で問いながらカウンタを出ると、入居者の一人の老爺が頭を掻きながら、
「いや、大丈夫大丈夫。いやお恥ずかしい、お恥ずかしい」
と、倒れた車椅子を起こして畳む。
一体どうしたのかと尋ねると、
「いや、配膳のところのスロープあるでしょ?あそこから車椅子ですいーっとやったら楽しかろうなと思っててね。二、三日前に試してみたらこれが気持ちが好いんで、つい病みつきになってしまって。いやお恥ずかしい」。
彼は少年の様に照れ隠しの笑みを浮かべ、幾度も頭を下げながら貸出用の車椅子を私に返し、皆には内緒にして下さいと口の前で人差し指を立てて見せてから、階段を上っていった。
そんな夢を見た。
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