第七百四十九夜

 

 放課後の職員室で学年末試験の解答用紙を整理していると、隣の机へ教頭がやってきて、
「これ、例のもの」
と同僚へ掌大の白い紙袋を渡した。同僚はさも嬉しそうにそれを受け取り、お代はといって財布を探すような素振りをするが、
「いやいやいいからいいから。どうしてもと思うなら、それに払ったつもりで今晩、精の付くものでも食べて下さい。心身が弱るのが一番いけない」
と教頭は彼女を止める。

 尚申し訳ないからと続ける彼女に手を振って拒絶を示しながら、彼は私の方へ顔を向け、
「ちょっと、いいかな」
と教頭室へ来るよう促す。ハイと答えて解答用紙に重りだけ乗せておき、席を立って彼に続く。何か呼び出されるようなことをしただろうかと記憶を辿るが思い当たる節はない。とはいえこのご時世、どこからどんなクレームが付くか知れたものでない。条例で定められて肌寒い職員室なのに汗が滲む。

 教頭室へ入ったのは何時以来だろうか、校長室と違い客を招くのには向かず、事務仕事のための部屋といった様子で、かろうじて一組のソファとテーブルこそあるものの、校長室のもののように来客向けの質のものではない。そこへ座るように促され、教頭が腰を下ろすのを待ってから腰掛ける。と、教頭がテーブルの上へと身を乗り出し、
「彼女の様子、どうでしょう。ちょっと、気を付けて見てあげてくれませんか」
と小声で話す。生徒達なら兎も角、大の大人がこんな声の出し方をするのは久し振りに見た。内緒話というやつだ。
「ちょっと忙しそうだなというくらいで、特に変わりはないように見えますが」
と、なんのことかわからぬまま答えると、彼は唇の前に人差し指を立て、
「実はさっきの包みね、あれ、知り合いの神社のお守りなんです」
と掠れた小声で言いながら、私の目をじっと見る。

 なんでも二日ほど前、彼女が学年末試験の監督をしている折のこと、皆静かに試験問題を解いている中をゆっくりと歩いて回っていると、
「ああだめ、全然解けない」
と嘆く女生徒の大きな声が聞こえたという。声は死角から聞こえて誰のものかわからなかったが、
「だあれ?私語は禁止ですよ」
と、声色に棘の無いよう努めながら窘めて教室を見渡すが、返事や謝罪をするものはいない。おやと思うと既に問題を解き終わっていた秀才の少年が手を挙げる。どうかしたのかと尋ねると、
「誰も喋ってないと思うんですけど……」
と言った。それをきっかけに、皆遠慮勝ちな小声で「聞こえた?」「聞こえなかったよね?」と近くの席同士で尋ね合い始める。彼女はパンパンと二度手を叩き、
「ごめんなさい、きっと空耳ね。疲れているのかしら」
と謝罪して、試験に集中するよう促したそうだ。
 つまり、
「お守りを渡したということは、その教室に何か『そういう』話があるんですか?」
と早合点した私が尋ねると、しかし教頭は苦笑して、
「反対ですよ。この学校は出来てから半世紀も経っていないし、その間これといった事故も事件も、幸いありません」
と顔の前で手を振る。
「若くて真面目な先生は特にですがね、子供の毒に中てられ易いんです。皆がそうというのではありませんが、どうにかして人の粗探しをしよう、弱点を見つけて馬鹿にしてやろう、そういう性根の子がいて、それが大人になっても露骨に現れるのがSNSなんでしょうな。顔が見えないから、安心してしまって性根が出る」。

 彼は一度そこで言葉を切り、いっそう低く抑えた声で、そういう毒で知らず知らずに神経症気味になる先生は珍しくない、神経症なら精神科に行くべきかもしれないが、自分が神経症と診断されたことにストレスを受けるのだろう、かえって良くない例を何度も見てきた。だから、
「幽霊のせいにして、お守りと美味しいご飯でストレスを解消できるのなら、そうしたいのです。もちろん、それで悪化させてはいけませんから、あなたには彼女の様子をそれとなく見守ってあげてほしいのです。嘘吐きの片棒を担がせるようで申し訳ないのだけれど」
と、彼は私に頭を下げるのだった。

 そんな夢を見た。

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