第二百四十夜
麗らかな春の午後、いつも通り閑古鳥の鳴く店内でココアを溶いた牛乳を鍋に入れ火に掛けると、硝子の棒の触れ合う涼やかな音が店内に響いた。店へ入ってきたのは華奢な女性で、年の頃は二十歳くらいだろうか。
白いワンピースの上に羽織ったデニムのジャケットの肩に届くかどうかの高さで、乱れた黒髪が揺れる。
彼女はやつれた頬の上の目を見開きながら店内の棚をあちらこちら見回った後、レジの裏でココアを吹いて冷ましている私の方を向き、
「あの」
と大きな声を出す。
一瞬で営業スマイルと他所行きの裏声を用意し、定型句を返す私の返事が終わらぬうちに、
「除霊グッズっていうんですか、結界を張れる御札とか、魔除けの鈴お清めの塩とか、そういうのってありませんか?」
と切り出す。
勿論そういうものはある。が、数少ない商機を逃す手はない。折りたたみの椅子をレジの前に出し、座るように促しながら、鍋に残ったココアを客用のカップに淹れる。
「あるにはあるんですけれど、使い方を間違えるとかえって悪い結果になることもありますので……」
と、彼女にどんな悩みを解決したいのかを尋ねる。願わくば出張料を取れるような仕事になるまいかという下心が無いではないが、そればかりでもない。お客様としていらっしゃった方には、適正な対価で、それに応じた満足を提供したいのである。ついでに言えば、数少ない客に「効かなかった」とか「逆効果だった」などと触れ回られては商売上がったりだということもある。
ココアをちびちびと舐めながら、彼女は部屋の異状を訴える。曰く、今年の春に上京して初めて借りた部屋に幽霊が出る。アパートの二階の角部屋で、通りに面した明り取りの小さな窓があるのだが、それに夜な夜な血塗れの女の苦痛に歪んだ顔が映る。じっと正面から見つめれば何もない、通りを挟んだ向こうのマンションが見えるだけなのだが、視界の端に窓がちらりと入り込むようなときには常にその顔が見えるという。
「それでとにかく落ち着かないし、気にし過ぎなのかもしれませんけど、なかなか寝付かれないし、寝ても悪夢を見たり金縛りに遭ったりで……」。
話を聞きながら、彼女に悟られぬよう小さく溜息を吐く。残念ながら、あまり金にならぬ客だ。新生活の不安で有りもしないものを見た気になって思い悩む。疑心暗鬼になって夢見が悪くなり、またそれを有りもしないものに起因すると思い込む。精神的な自家中毒、神経症の一種だ。
まあこの店に来る客は大体こんなものである。思い込みが激しく、人の話を自分の都合の良いように曲解する。それでことが思うように運ばないのは当然なのだが、自分ではその原因を正しく把握できない。だから魔術に頼ろうとする。もちろん、これを理詰めで解消するのは難しい。
「お宅に伺って宜しければ、払えますよ、三十分くらいで簡単に」
という私に、彼女は目を丸くして驚いてから何度も頭を下げで助力を請い、私の提示した金額の安さにまた目を丸くする。
確かに、それなりの高額を要求するのも、客の満足感のために役立つことはある。が、何も一介の学生に不要な金額を出させる必要はない。値段に根拠があることを示し、納得させればよいだけだ。
今なら時間の都合が付くと言うので、少しだけ準備をするから待つように言って席を立ち、ココアのお代りを出して店の裏へ回った。
そんな夢を見た。
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