第二十二夜

「お客人、お客人」
と涼しくも艶のある声に呼ばれて辺りを見回す。背後には宿坊の濡れ縁、目の前には冬枯れの枝ぶりからも秋の紅葉の目に浮かぶような楓に囲まれ覆われた池の水面。人の姿はどこにもない。
「お目をもそっと下に、下に」

請われておろした視線が、胸鰭を掻きながらこちらを見上げる一匹の錦鯉のそれと合う。
「そうです、私めでございます」
こちらが事情を察したとみると、鯉は円い口を忙しなく閉じては開き、閉じては開きながら、耳に心地よい声でこんなことを訴えた。

初めてお目にかかるお客様に、かよう夢枕に立たせて頂くご無礼をば、どうか喫緊の事情のある故とお察し下さり、何卒御免遊ばしませ。火急の事情と申し上げますのは決して他でもございません、今から数えて三月の後、今年の梅雨はお天道様の出る幕もないほど長雨続きになるのでございます。そうして山の土にじゃぶじゃぶというほど水の貯まったところへ、大きな台風が参ります。ええ、きっと参るのです。そうしてその大風が裏山の木々を一斉に、これでもかと揺さぶるところへ大雨が追い打ちを掛けるものですから、裏山の土が一息に崩れてはこの宿坊経押し寄せて、一呑丸呑みにしてしまうのでございます。

立派な髭をぴらぴらと揺らしながら、鯉はじっと私の目を見て訴える。

ですからどうかお客人、この宿の主人から私めを買い取って、どこか住み好さそうな池か沼かへ連れて行って下さいませんでしょうか。移る先の始末はもちろんこちらで致しますから、決してお客人にご迷惑などお掛けすることはございません。私めをお買い上げになるお代も、必ず後に仕合せて、十倍にも二十倍にもしてその恩をお返しいたします。とうか、どうか後生ですから。

地滑り、山崩れといえば確かに一大事。しかしそれならば何故、一蓮托生たる宿の主人へ訴え出ず、只の客にすぎない私へそれを願うのか。

それは、お客人、もちろんご主人の枕には立ちましたとも。ええ、それも三度も。しかしご主人はどうも、生まれてこの方この山の中、この宿坊で暮らし放しだからでしょうか、世の不思議、山の不思議というものにすっかり慣れきってしまっておいでなのです。初めて枕に立った翌朝に餌を下さる折は、昨夜はお前の喋る妙な夢を見た、どうだ夢のようには喋らぬかと笑って仕舞いでございました。次に枕に立った翌朝も、今日もまたお前の夢を見たわいと笑って仕舞いでございました。もうこうなってはご主人は頼れません。どうかお連れになって下さいまし。

そんな夢を見た。