第百九十二夜

 

紅葉の渓流を写真に収めようと車を走らせていると、人里から随分と離れたところで谷を眺めながら歩く人影に追いついた。肩に提げた荷物から釣り人と分かる。

こんなところを一人で歩く姿に違和感を覚えるが、近くに住む人なのかもしれないと思うと興味が湧いた。

こちらの近付く音に振り向いた初老の釣り人が、ぱっと顔色を明るくしてこちらにひらひらと手を振ってみせる。何か困り事かと見通しのよい直線で車を脇に寄せて窓を開けると、上の集落近くまで乗せていってくれと言う。

躊躇う私に人懐こい笑顔を向けて、怪しいものではない、上の集落の旅館の元主人で、今は娘夫婦に任せて隠居の身だが、乗せていってくれればそれなりの礼はすると言う。言われてみればその愛想の良さも、長年の客商売で身に付いたものかと思われて結局は助手席のドアを開ける。それにしても地元の人間なら、帰るのに人を頼るようなところにどうして一人で居たのだろう。

が、それをこちらから尋ねる迄もなく、車を出すと彼は立て板に水で喋り出した。

彼の温泉宿はそれなりに繁盛している。先代女将、つまり彼の妻が病死したのを機に娘夫婦に経営を任せたそうだ。今でも体は動くのだが、手伝えば娘の五月蝿がるのは火を見るより明らかだし、義理の息子に窮屈な思いをさせるのも気が引けるので、あれやこれやと理由をつけて外へ出るようにしているという。今日は釣りをすることにして、宿の小型バスで来て、帰りも宿のバスに合わせるつもりだった。
「それならどうして私に声を?」
バスを待っていればよかったのでは無いかと尋ねると、
「浮きがなぁ、川上に流れるんだ」
と短く刈り込んだ灰色の頭を掻く。

釣りの仕掛けは水に押され、下流に流されるのが当然だ。
「それがね、上流に向かって引っ張られるんです。そういう、理屈に合わない事、普段と逆様の事が起きるときというのは縁起が悪い。時期を弁えずに釣りをした不義理でしょうか」。

それに気付いた彼はそそくさと荷物をまとめて川に頭を下げ、予定外に早く上がってきたのだと頭を掻いた。

そんな夢を見た。