第一夜
万年筆の青黒いインキで細やかに線描された紳士の顔。それだけが意識にあった。
その顔の口髭の下の唇が、発声練習のお手本のように几帳面にこう動いた。
「こんな夢を見た」。
それを聞いて、これは夢だと気付いた。夢だと気付いて、それは旧千円札の夏目漱石だと気付いた。漱石翁と気付いて、子供の時分に祭りの夜店で金魚掬いのポイを破ったときのことを思い出した。夢を夢と気付くと、直ぐに目の覚める性分だ。
「腕組みをして枕元に坐っていると、……」
漱石翁の言葉は次第に朧気になる。青黒い線は水を被ったように滲み、目の前いっぱいに広がって、気が付けば青黒い自室の天井を見上げていた。
夢十夜。言わずと知れた漱石翁の傑作の一つだ。部屋の暗さからすると日の昇るのにはまだ随分と時間がありそうで、夢の続きでも見れはしまいかと、寝返りを打って眠りに就こうと試みた。
布団が擦れる音が誰かの溜息めいて、狭く冷えた部屋に響いた。寝呆けながらも寝付けぬ頭に言葉がこんこんと湧いた。
自分の筆など、漱石翁とはくらべるべくもない。しかし、石の上にも三年と云う。下手な鉄砲、数撃ちゃ当たるとも云う。夢十夜と云わず夢五十夜でも夢百夜でも、筆を執り続けてみてはどうか。夢千夜、欠かさず続ければ約三年、三日に一度で八年と少し。桃栗三年柿八年。千の内には一つや二つ、ひとさまにお目にかける価値のあるものも生まれはしまいか。
そんな夢を見た。
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